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2008年12月

その4-2、レンヌでの発見

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大聖堂の向かいの細い通りを歩くと古い門がありました。ブルターニュ公国の歴史の証人ともいえそうです。

 パリからTGVで約2時間10分、ブルターニュ地方の玄関口で、モン・サン・ミッシェル、サン・マロなどをまわるときの起点となる町、と旅行ガイドでは紹介される、大西洋寄りで人口約21万4000人、となかなか活気のある中世のころより栄えた地方都市レンヌですが、私がここに来よう、と思ったのは、まず、お目当てのケーキ屋さんがあるのと、そして、かつてのブルターニュ公国の名残を見つけたかったから、です。

 パリを朝7時30分頃に発ち、レンヌ駅についたのは9時46分頃でした。ガイドブックにある簡単な地図をみながら、町の中心部、レピュブリック広場に向かいました、ケーキ屋さんはすぐ見つかりました。MOFシェフ、ダニエルさんのお店で、サロン・ド・テもある、とルレ・デセールのガイドブックにありましたので、期待していたら、ショー・ケースには多種類の魅力的なケーキ達がにっこりと笑って出迎えてくれたようで、どれにしようかと迷いましたが、お店のスペシャリテと、好物のモンブランにしました。価格設定は3ユーロ台で、店内で食べても4ユーロにはならない、とパリでは考えられない相場で、こんなにおいしいケーキが、といっぺんに気に入りました。

 ダニエルさんのお店と同じ通りには,MOFシェフYVE THURIESさんのショコラテイがありました。ここでもボンボン・オ・ショコラの箱を買いました。

 レンヌ美術館には素晴らしい絵画コレクションがある、と楽しみにしていたら、あいにくと工事のため、絵画ギャラリーは閉鎖されていました。仕方なく考古学の展示と彫刻コレクションを鑑賞しましたが、アラバスターの彫刻作品のアンヌ・ド・ブルターニュと出会いました。何歳のものかわかりませんが、その表情からはなにも私には推し量れませんでした。

 大聖堂もみたかったのですが、12時から15時までは閉鎖されていて、周りを歩いてみただけに終わりました。じゃあ、旧市街まで行こう、ととぼとぼ歩いていたらお土産屋さんがあり、せめてポストカードでも、とあれこれ探していたら、古めかしい石つくりの門を見つけ、お店のマダムに尋ねたところ、これは中世からの遺跡で、大聖堂の正面の通りの奥にあるし、通れる、と教えてもらい、今来た道を引き返たところ、すぐに見つけられました。(地球の歩き方)には載っていないので気がつきませんでした。

 PORT MORDELAISEといわれているその門は1440年レンヌ大公により建立、ブルターニュの自由と権利を尊重するために、と記されている説明を読み、やっとブルターニュ公国の存在を感じることが出来た、と歴史との遭遇を嬉しく思いました。この門のちかくには猫を飼っている家が多いようで、飼い猫、と明らかに分かる毛艶が良くて猫相がいい可愛い猫たちと合計6匹出会いました。でもこちらには寄ってきませんでした。気安くなでなでできて抱っこできるのは我が家の愛猫しかいない、と急にみぴこのことを思い出しました。

 旧市街の木組みの家を見たり、裁判所の前の広場のクリスマスマーケットのための木の小屋(準備中で、商品は展示されていませんでした)を眺め、ケーキ屋さんでクイニー・アマンを発見し(食べてみましたが、分厚いバターキャラメルが薄いパイ生地にのっかっている、というものでした)、最後に、あのダニエルさんのお店に立ち寄り、カラメル・ブール・サレとミルクチョコレートムースを組み合わせたドーム型のケーキ、これまた好物のミル・フォイユを味わいました。ブルターニュのシンボルはあちこちにあったものの、これといった歴史的発見はひとつだけでしたがダニエルさんのお店に行けたことだけでも充分です。

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その4-1、レンヌ、そしてナント、最後の大公女アンヌを辿る

 この二つの町は16世紀にフランスに併合されるまでは、大国ブルターニュ公国の一部でした。ブルターニュ、といえば、数年前に大流行したクイニー・アマンがブルターニュ地方伝統銘菓であり、独特の人名があり(ロイック、など)、ブルトン語を話し、独特の文化を持つ個性的な地方都市、と紹介されるでしょうか。また、私のお気に入りのお菓子のひとつに塩味のきいたサブレ、ガレット・ブルトン、サブレ・ブルトンがあり、これはガトーの構成要素としてもよくみかけます。(ピエール・エルメのお店の商品にもありました)ただ、私にはなぜ、レンヌはブルターニュ地方なのに、ナントはロワール地方としてガイドブック(地球」の歩き方)で分類されているのか不思議でしたが、フランスに来てからあれは現在のフランスでの考え方で、かつてはそれだけ広範囲を支配した巨大な公国であったから、と考えました。おそらくは当時は国王をしのぐほどの富をもつ先進的で洗練された文化国であったのではないでしょうか。私は、トウールに居た時、14世紀から16世紀において栄えたこの国の最後の大公女であり、ただひとりの正当な跡取りでもあったアンヌ・ド・ブルターニュ(1477ー1513)に興味を持ちました。

 ロワール古城物語という本があれば、ヒロインの一人ともいえるし、シャルル8世、ルイ12世と二人の国王の妃としてフランス史にも登場し、決して巨大な歴史の小さな歯車のひとつではないアンヌですが、なぜか日本では知名度が低いように思えました。(私が彼女を知ったきっかけは、ハプスプルグ家の歴史を調べていた時、ハプスブルグ家のマルガレーテ皇女と婚約していたフランスのシャルル8世がそれを破棄してまでブルターニュ公家のアンヌと結婚した、というエピソードです)トウールには大聖堂があり、そこにはシャルル8世の子供2人のための棺が置かれていますが、それをみた時その小ささにはっとし、そこに眠っているのは夭折した僅か4歳足らずの王子と生後25日しか生きられなかった王女で、母親は王妃アンヌ・ド・ブルターニュ、とそれまで私のなかでばらばらだった知識を結びつけるラインとなりました。その後、訪れたアンボワーズ城はシャルル8世と王妃アンヌの宮廷があったところで、フランス王家の百合と、ブルターニュのシンボルのひとつで彼女のマークでもある白テンの尻尾をデザイン化した紋章をあちこちに発見し数世紀のときを超えて彼女に出会えたように思えました。(なんで白テンなのか、お城のガイドさんに聞いたところ、アンヌはこの動物の毛皮が好きだったから、と言われましたが、これはジョークでしょうか?)お城のチャペル入り口には祈る王シャルルと王妃アンヌ、そして夭折した3人の王子が天使の姿で共に彫られていて、胸が詰まりました。亡くなった王子達はブルターニュ所有権のこともあり、シンボルマークが与えられていてそれが家具調度品に彫られていていかに大切な存在であったか伺えます。内部にはレオナルド・ダ・ヴィンチのお墓があり、誰かが手向けたらしいバラの花があり、偉大なる芸術家の後姿まで目に浮かぶようでした。

 ロワール古城のひとつ、ランジェ城はアンヌとシャルルが結婚式をあげ、婚姻の書類にサインがされたところです。ブルターニュはアンヌ生前は独立が守られ、その死後(1514年死去)さらに20年後の1534年にフランスに併合されました。ここにはバスなど公共交通機関がなくて車がないといけないため、訪れることはできませんでした。

 王と王妃が住んでいたアンボワーズ城はロワール川沿いにある城塞で、いかめしいつくりですが、華やかな宮廷生活もあったであろうと思われます。しかし、14歳で結婚し、シャルル8世がこのお城の鴨居に頭をぶつけて亡くなってしまうまでの8年間で6人の子供を授かりながら皆失ってしまった王妃には宮廷の賑やかさはわずらわしいものであったのかもしれない、と思ったのは、500mほど離れたところにある、レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年の3年を過ごしたクロ・リュッセの館を訪ね、そこの礼拝堂(アンヌ・ド・ブルターニュ小礼拝室)はかつてはシャルル8世が王妃のために建立したものである、という日本語の説明文を読んだときです。(幼い子供達を亡くした王妃はしばしば宮廷の喧騒から離れ女性が流す涙でもっとも悲痛な涙を流しにきては祈っていた。)

 シャルル8世が28歳で急死し、アンヌは22歳で未亡人となりました。あとをついだのはいとこで、即位してルイ12世となりましたが、ブルターニュを失わないために、先王の王妃と結婚しました。すでにルイ11世の王女と結婚していましたが、ブルターニュが持参金であるアンヌを手にいれるために、チェーザレ・ボルジアの父親でもあったカトリック史上悪名高いときの法王アレッサンドロ6世と手を結んでまでして離婚を成立させ、アンヌを迎えました。ルイとの結婚生活約14年、授かった子供で成人したのは王女クロード・ラ・フランスただ一人で、彼女も長生き出来ず、いとこにあたるヴァロア家のフランソワと15歳で結婚し7人の子供を生んで25歳で世を去りました。(1525年死亡)フランソワは舅ルイ12世の死後王位を継ぎ、フランソワ一世となりました(1515年即位)。この王様はルネサンスの王、と言われ、教養人であり、レオナルド・ダ・ビンチの最後のパトロンとしても知られています。国王即位の翌年1516年にダ・ビンチは王の招きでフランスに移り住み、3年後に世を去りました。このクロード王妃の名はフランスの特産プラムに残されています。(レーヌ・クロード、夏の終わりごろに出回る青いプラムで、少々高いのですが皮が柔らかくてとても甘く、そのまま食べても、お菓子、ジャムにも使えます。)トウールでのホストマザー、フランソワーズは毎朝、お手製のおいしいレーヌ・クロードのジャムをパンと一緒にだしてくれました。忘れられません。

 パリ郊外の町サン・ドニには王家の墓所、サン・ドニバジリカ大聖堂がありますが、そこにアンヌは2度目の夫ルイ12世と共に眠っており、娘クロードと義理の息子フランソワ1世の棺も近くに置かれています。偉大といわれたブルターニュ大公フランソワ2世と二度目の妻、マルガレーテとの間に生まれ、僅か14歳で両親を失い、広大な公国を背負ったアンヌ、国の独立を守るためフランス王との結婚を決意するまでの心の葛藤はあったのか、それは民を守るための、当然で迷うこともない選択であったのか、女としての、母としての人生には幸せなことはあったのか、と棺の上にルイ12世と並んでいる痩せた殆どなにも身にまとっていない彫刻をみて語り掛けたい気分になったのですが、現代人の考えでは推し量れないものがある、と、帰国後に塩野七生さんの著作を読み直してみたら少しはわかるかしら、と考えました。

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パリ編43、持ってきてよかったもの、持ってきたら良かったもの

 パリには日本食品店、日本で出版されている本なら週刊誌でも買える書店、日本人のコミュニテイがあり、価格の高さに目をつむればそこで限られてはいてもだいたいのものは買えるし、考えるほど不便ではないし、地元のスーパー、中華食材の店でみつけられるものも多いのですが、私にとっては持ってきて良かった、これがあればな、と思ったものを書いてみます。

1、フランス語の手紙の書き方の本

 白水社出版の小さな本ですが、内容は詰まっていて、実利的で、これがあるおかげでホストファミリー管理人さん、学校の先生、クラスメイト、研修先のシェフにお渡しする手紙を書くことができました。日本語の手紙の書き方の本も大変役に立ちました。

2、便箋、封筒

 カジュアルな横書きのもの、目上の方に使える縦書き用の上等なもの(京都なら鳩来堂)はどちらも重宝します。

3、折り紙の本、折り紙セット

 いつも旅行時には折り紙の本、折り紙大、中、小、とサイズを変えて持っていきますが、これも役に立ちました。折り紙の本は学校の先生に最後に差し上げました。綾取りの本も持っていきましたが、これはアメリカ人のクラスメートに餞別に渡しました。

4、パソコン

  私の住んでいたところはトウールもパリもネット接続は無理でしたが、クjラスメートに貸してもらった映画のDVD(フランス語)をみたり、CDを聞いたりしてフランス語に耳を慣らすのに少しは役立ったかもしれません。また、写真データをパソコンにデータとして入れておき、整理する、ということも出来ました。

5、ゴムベラ、

 使い勝手のいいものがあまりないようだったので高温でも使用可能な、一体型のものを持っていきました。

6、セロテープ

 セロテープ(スコッチ、といわれていました)は現地でも買えますが、透明ではなかったです。いつも使っている1.8cm幅のものは重宝しました。

持って行けば良かったもの

1、サランラップ

 パリにもラップは売られていますし、高くはありませんが、使い勝手は悪く、箱に付けられているカット用の刃ではうまく切れず、いつもはさみか包丁で切って使っていました。

2、計量用大匙、小匙 :自炊にはあれば良かったと思っています。

3、万年筆のインク :一本だけでもスペアを持っていくべきでした。

4、カレッジシールの細い幅のもの: フランスには幅広のものしかありませんでした。

5、髪を止めるためのしっかりしたピン: かなり割高に思えました。

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その1、アンジェ

Dscf1623 アンジェ城を見たとき、身震いがしました。

 パリは世界中の人を魅了させてくれる素敵な街ですが、フランスは地方都市もガイドブック、テレビ番組等でもしばしばとりあげられるように北にも南にも東にも西にも一度は行ってみたいところばかりで、パリ到着後は市内名所見物、住んでいるところの近辺探索、マルシェやスーパーチェックを学校が休みの日にしていましたが、折角ここに住んでいるのだから、旅行中では無理だった地方都市日帰り旅行もしてみたい、とロワール古城のひとつで以前から気になっていたショーモン・シュル・ロワール城を皮切りにパリから片道2時間以内でいけるところから選んでは週末は日帰り旅行を楽しみました。

 アンジェはロワール川沿いにある中世から栄えた街で、私はここには地方での伝統菓子、クレメ・ダンジェがある、と中学生のときに読んだ同市出身で当時女子栄養大学が運営している製菓学校で講師をされておられたセルジュ・フリボー氏がどこかで書かれていた文章を読んで以来、いつかここに来たい、と願っていました。日本では東京市が谷にあるパティスリー・シーマで買って味わったことはあります。パリのマルシェでは似てはいるけど違う名前のお菓子に遭遇しました。(フォンテイーヌ・ア・ラ・クレーム、といわれていました)

 パリからTGVで1時間30分かけて、アンジェ駅に着いた時、もう10月第2週に入っていたのに空は青く澄み、太陽は明るく、トウールに居た時毎日眺めていた太陽、空、いつも吸っていた空気そのものを感じ、まるでふるさとに戻ったかのような気分になりました。この街には大学、語学学校が多く、各国から留学生が集まる(人口の1割は学生さんといわれています)せいか、古い街ながら活気と明るさに溢れていて、日本からも多く留学する方も住んでいるせいか、駅員さんが日本語で挨拶してくれたときにはびっくりしました。(パリではアジア人は中国か韓国、と思われることが多いもので)

 アンジェ城や美術館にいくには市内中心街までいくことになります。駅員さんはすぐ、といっていたし、ガイドブック(地球の歩き方)にのっている簡単な地図を見つつ歩いていくことにしました。駅前にはパン屋さんが3軒近いところに点在していました。おなかがすいていたこともあり、それぞれのお店で一個ずつなにかしら買って味わってみましたが、どれも美味しいパンでした。すっかりこの街が気に入ってしまい、いい気分で歩いているうちに目指すアンジェ城についてしまいました。ルネサンス期より数世紀も前の敵からの侵略から国を守るための軍事的ないかめしいお城で、がっちりした城塞とそれを取り囲むようにして周囲には深い堀のあとがあり、かつての入り口には跳ね橋が固定されていましたが入場者を拒むかのようにな雰囲気がありました。そこを渡り、今は木や花が植えられて綺麗に整備されている堀あとを上から眺めると、高所恐怖症の私は足がすくみ、塩野七生さんの名著(チェーザレ・ボルジア)中で囚われの身となった主人公が幽閉されている塔から脱出する場面を思い出しました。城塞の上は歩いてまわれるようなつくりで、あちこちに花壇が作られていました。教会、中庭、かつて城主が住んでいた館、かつての大広間の壁の一部を眺め、このお城の最大のコレクション、(ヨハネの暗示録のタピスリー)が展示されている博物館ではその大きさにはほー、とため息をもらし、そこに描かれている悪のシンボルの怪獣や、それらをあがめる人間たち、美しい顔の女性が鏡をみるとそこには醜い老女が移っている、怪獣との戦い、など表現が面白く、人物などの背景にある花は独特なタッチでで織られているのをみました。

 お城をでるとつぎは旧市街、美術館、大聖堂、と見所が多く、木骨組みの家が多く残る旧市街を歩くとここがトウールで、語学学校のすぐそばのプリュムロー広場にいるようでした。カフェ、レストラン、ショップ、ブテイックが並んでいる賑やかな商店街にはケーキ屋さんも数軒発見しました。ルレ・デセールのガイドブックに紹介されていたお目当ての店は見つけられませんでしたが、偉大なるバレエ振り付け家ローラン・プテイ氏と同名のパティスリーがあり、ケーキが美しく、美味しそうだったので、ためしにマカロン一個買って食べてみたら美味しかったので、ミルフォィユ・カラメル、ルリジュース・アプリコを買いました。図書館の庭のベンチに座って味わいましたが、美味しかったです。

 はるか古代から人が住み、中世にはかつてこの一帯を支配していたアンジュー公家の首都として華やかな宮廷文化が花開いたこの街は来年、アンジュー公ルネ2世の生誕600年で各種イベントが開催予定だそうです。隣国にはやはり大国ブルターニュがあり、シャルル7世王妃マリーもこのアンジュー出身です。また、イングランド王家、百年戦争とも関わりの深いところで、そのあたりの歴史は残念ながら詳しくなく、もっと勉強してから再訪問すれば、歴史の足跡を多く発見出来て、数世紀を超えて歴史上の人物達と交流が持てたのに、とそれが心残りとなりました。

 この街は、アーモンドヌガーをブルーに着色したホワイトチョコレートでコーテイングしたアンジェの屋根瓦、(QUERNANS D‘ARDOISE)といわれるお菓子、ここで生まれたホワイトキュラソーの代名詞ともなっているオレンジのリキュール、コアントローを使ったキャラメルがスペシャリテです。10月25日から11月2日までパリで開催された(サロン・ド・ショコラ)でもこのチョコレートでコーテイングされたお菓子をみました。6ヶ月保存ができるとのことで、ためしに買ってみました。ヌガーは薄く、ごつさもなく、思ったよりはたやすく砕けて食べやすかったし、香ばしくおいしいお菓子でした。

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その2、サン・ジェルマン・アン・レー

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 パリからRER線Aに乗って、エトワールから約20分で行けるこの古い町は週末にパリからふらっと訪れるにはいいところです。駅を降りて階段を上って地上にでると目の前には古めかしいお城が目に入ります。ここは12世紀に国王ルイ6世によって丘の上に築かれた要塞が始まりで、その後、16世紀にフランソワ1世が改築したものが今日残っているもので、かつてはもっと多くの建物がありましたが、今は消失し城の一部であったルイ14世生誕の館は4つ星デラックスホテルとなって、考古学博物館となったお城から少し離れるようにして現存しています。

 考古学博物館となっている建物は、ガイドツアーで屋根まで上れますが古いお城のため、人数限定となっています。私が訪れた9月の日曜日は最終ツアーに申し込めたので帰りの電車を遅らせて参加しました。地上37mの屋根の上はフランソワ1世の紋章F、王のシンボル、サラマンダー(空想上の怪獣の火吹きトカゲ)をいたるところで発見出来ました。(フランソワ1世が建てさせたロワールの古城、シャンボールの日本語による案内パンフには、サンショウウオ、と訳されていました)屋根からはパリの中心部が見渡せ、エッフェル搭、モンパルナスタワーも視界に入りました。高所恐怖症の私は最初はおっかなびっくり、おそるおそるそろそろと歩いていましたが、歴史の話になると、ようやく恐怖が少しはなくなりました。

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 この町には来たのは、ルレ・デセール会員のMICHEL POTTIERシェフのお店、柴田書店の発行誌(カフェ・スイーツ)のバックナンバーにあるパリガイドで紹介されていたお店B・OLIVIERを訪ねるのも目的でした。ケーキは2つのお店で買って味わってみましたが、どちらも美味しく、値段的にも良心的でしたが、私はMICHEL POTTIERのほうが気に入りました。比較的新しいお店のB・OLIVIERに対してやや古めかしさを感じさせるシックな店でしたが、古典的、伝統的なお菓子も、デザイン、色遣いにモダンさを感じるお菓子も揃っており、お菓子の各部分がきちんと作られている、と感じました。このお店のスペシャリテ、とマダムが教えてくれたルリジュース・ヴィオレットは中につめられているヴァイオレットクリームはブルーなのにまずびっくりし、一番上にはスミレの生花にグラニュー糖をまぶしてから乾燥させたものが飾られていたのには感心してしまいました。ヴァイオレットの芳しい香りを感じつつ駅のベンチで食べたのですが、美味しかったです。クレーム・パテイシエールのはさんだミル・フォイユはラム酒が効いていて、私にはきつすぎました。プラリネ風味ミルフォイユはとても美味しかったです。この他には、女性オーナーがお菓子教室も開催している、小さなお菓子を売っている(プテイ・ガトー)という可愛らしいお店もあり、ここではエプロン、お菓子器具も売られています。

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帰国後編その2、ケーク・オ・ショコラを焼きました・

 私が15週間住んだアパートを引き払ったのは11月30日でしたが、その日、管理人のジョニさんはフランスのレギュラーコーヒーのパックとカカオ76%の板チョコをくれました。餞別代わり、と思いスーツケースに詰めて日本へ連れ帰り、どのようにして使おうか、と考え、バターと一緒に湯せんで溶かし、ケーク・オ・ショコラを焼きました。カカオ含有量が低かったらココアパウダーを足してやるのですが、その必要はありませんでした。翌朝、ジョ二さんにもらったコーヒーを淹れて、そのケーキを味わったのですが、以前、朝のお茶の時間によんでもらったときに出てきたコーヒーの香りと風味を思い出しました。フランスのメーカーのものですが、ウイーンのコーヒー並みに深煎りされた味わいでした。

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帰国後編その1

 本日は12月4日、すでに帰国してから4日目となりました。午前10時ごろにフランスから別送した荷物が郵便局、ヤマト運輸からたて続けに届きました。先週金曜日に集荷してもらっていたもので、日本到着は大体1週間くらいかな、と思っていましたがその通りでほっとしました。ヤマト運輸は着払いで、郵便局からのはコリッシモ最大サイズ(7キロ以内)にしてました。ヤマトからのは運送が丁寧だったのか、パリ支店で買った箱が厚めで丈夫だったからなのか、あまりよれよれになってなかったし、箱外側に汚れや傷跡なども殆ど無かったのですが、郵便局送りにしたほうは、いままでになく箱はよれよれになっていて、日本で検査のため開けられていて、新聞でくるんでいたものはすべて包み直されていました。ただ、この中にはお店での研修最後の日にシェフからいただいたオレンジママレード(オレンジの表皮を卸し、ジュースを絞ったのは私です)と、シェフにサインしていただいた本が入っていて、瓶が割れることを心配していましたが、中に詰めていたものは全て大丈夫でした。

 帰国してから本屋さんに寄った時、小林かなえさんの新しい、パリのお菓子屋さんガイド本を見つけ、めくってみたら、シェフのお店も載っていましたし、私がメトロの窓から外を眺めていたとき発見したお店、(MOULIN DE LA VIERGE)もみつけました。私の研修先であったカールシェフのお店はまだ新しいのですが、これで日本の若い女の子がパリにやってきて必ず寄る人気のパティスリーとなることでしょう。でもすでにお馴染みのお客様が多かったようで、柴田書店発刊カフェ・スイーツでのパリ最新ガイド記事を片手に訪れる日本の方も多くみかけました。このお店を研修先に決めたのは、10ユーロあればどのお店でケーキを買おうと思うか、そして中学生くらいの子供がエクレアをひとつ買いに来たときのお店の対応とその子は笑顔でいられるのか、ということで、実際そのようなシーンを見たことが決め手となりました。あのシェフの素晴らしい作品と、サービス担当のムッシュージャン・ミッシェルのコンビなら、別に日本で紹介されていなくてもこれからどんどんお客様が増えていく、と確信しております。実は、研修先については学校には第3希望までを出すことができました。その時は第一希望はほかのお店でしたが、縁があって第二希望のカールシェフのところにお世話になりましたが、あそこでよかった、大正解だった、と今は思っています

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パリ編44、旅と生活

 ついに19週間のフランスでの留学を終えて、帰国し、3日が過ぎました。いまだに時差ボケで夜に良く眠れない、という状態です。留守中、安全のため、自宅の物置に置いてて夏の暑い時期に使用できるように教室から移動させていた冷蔵庫をもとのところに戻し、元栓を閉じておいたガスも開栓させ、全て使い切ってしまったケーキ材料を揃える、などしたり、学校での研修テキストをひろげてどのケーキを再現しようか、と考えてはレシピを書き直し、パンを焼いたり、ケーキを作ったりしています。

 いつもの旅行はそこに人間関係が存在しているものの、場所の移動であり、旅行の終わりとはその土地との別れで、自分の好きな場所から去るのが面白くない、名残惜しい、という感情をより感じていました。今回はトウールでの4週間の生活、パリでの12週間の学校での学生生活、2週間のお店での研修生活、引越し準備にあてた最後の1週間も生活でしたが、それぞれ人との別離がありました。自分はあまり感情を爆発させない、濃い人間関係が苦手でどちらかというと一人でも寂しさを感じない、ドライな性格とは思っていたのに、折角知り合えた人達と別れる度ごとに悲しくてたまらず、トウールでのホストファミリーのお二人、パリで暮らしたアパートの管理人さんとの別れでは涙が湧いて止まらない位の悲しみを感じました。

 今、考えていることは、別れはどこにでもあり、避けられないものだけど、それでおしまいになるような人間関係ではなく、存続させていけるように育てていくのが大切なのだ、と。

 フランスでの滞在中、私はしょっちゅう手紙を書いていました。一方的なアプローチではあってもそれが相手と自分との間のつながりの糸であるように思い、それによって自分が心の平安を保つこともできました。今回、知り合えた、お友達になれた方達にこれからもお手紙、電子メールを送ろうと思います。

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パリ編42、空港にて

 タクシーに乗って出発したのは朝9時35分ごろで、6人乗りのリムジンに私1人、という貸切り状態でした。空港についたのは10時10分頃でした。空港には当然ですが人が多く、軍隊が歩き回っているのもあちこちでみるのもいつもの風景です。飛行機は13時30分発で早い、とは思ったのですがなにがあるか分からないから、と搭乗手続きのためカウンターに行ったらすでに長い列が出来ていました。心配していたスーツケースは18キロ、と制限を越えず、手荷物の重量チェックがされないか、とひやひやしてましたが、その心配はなく、座席も26列目の通路側、と悪くないところをゲットできました。手荷物、ボデイチェックが済めば、あとは搭乗まで少し時間があるのでホールにあるWIFIコーナーまでいってパソコンをあけてみましたが、残念ながら、プリペイドカードを購入し、そこのパスワードを入力しないとネット接続は出来ない仕組みになっていて、ここでネットに気をとられていては機内に入るのが遅くなる、と、メール作成はあきらめ、ブテイックを覗き、あちこちに施されているノエルのプレゼンテーションを眺めたりしていました。旅行ガイドには公共での場所にはWIFIがあり、そういった無線ランゾーンにいけば誰でも無料でネットが出来る、という記事がありますが、これはかなり限られた場所での話しではないかと思います。私が住んでいたアパートの前もWIFIゾーンでしたが、電波は弱かったり、パスワード入力が必要で、場所によっては日時限定だったり、プリペイドカード購入が必要だったり、あるいは近所のマクドナルドのように、以前はうまくネット接続できていたのがうまくいかなくなった、ということもあったり、で、アパートを探すときの条件がインターネットが出来る、ということだったのが、実際は家主さんしかキーワードを知らないから、ケーブルは引いてあっても借家人は使うことは出来ない、という状況で(とてもそれを聞き出すことは出来ませんでした。聞き出せた方がおられたらその話をお聞きしたいです)、パソコン音痴の私はパリにきて少しは知識が増えたようです。近所のマクドナルドだけでなく、他の店舗も以前は多くみられたパソコンを叩く人を殆ど見かけなくなったように思います。(ひょっとしたら、なにも注文せずにネットだけしにくるようなお客が多かったのか、売り上げにあまり貢献しない長居のお客に手を焼いていたのかもしれませんが)

 

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パリ編38、帰国前その2

 帰国前にすることは荷物整理、部屋の大掃除、家主さんとの対面、保証金返還、鍵返却についての最終確認、家主さんによる部屋退去前の現状チェックに立ち会うこと、とまず考えました。荷物についてはヤマト運輸の国際宅急便サービスを利用することに決め、24日月曜日の朝9時にオペラ座近くのヤマト運輸営業所までいって国際輸送に耐えられる箱を買い、荷物集荷日もあわせて申し込んできました。その箱を持って一旦アパートに戻って置いてから学校へ最後の挨拶に行きました。12週間通っていた道を歩くのもこれが最後、と考えているうちに学校についてしまい、一番会いたかったジェニファー先生は丁度、担当クラスが休憩だったこともあり、運よく授業の妨げにならずにすみました。先生には11月7日最後の日にお手紙と日本から持参していた折り紙の本を差し上げました。子供さんが大変それを喜んでいる、と聞かされてよかった、と思い、研修中のことや、帰国後のこともお話いたしました。日本から送ってもらった24色の折り紙セットもお渡しいたしました。先生は私達のママンのようにずっと思っていましたが、やはりそうだった、とお顔をみて再確認しました。11月10日から開始の長期プログラムは当初3人、と聞いていましたが、直前に2人増えた、とのことで、日本人3名、アメリカ人1名、ブラジル人1名で、日本からきた2名と御挨拶をしましたが、私達のクラスメート、妻鹿祐介さんとお知り合い、と聞いて驚きました。ギョーム先生はおられなくて残念でしたが、ジェレミー先生、校長先生にはお会い出来ました。事務局のあきこさんにもお会いし、御礼を申し上げました。

 その日の午後、かねてから行きたかった、パリ近郊にあるルネッサンス期のお城、シャンテイまで足をのばしました。パリ北駅から電車で25分のシャンテイ・クビュー駅まで行き、お城までは2キロで、午後の電車は2時20分、と聞かされ、やめようかなとも思いましたが、切符は払い戻しが出来ず、やっぱり行こう、と駅近くのカフェで時間をつぶし、電車、タクシーと乗り継ぎました。森のなかの一本道を進み、目の前には白亜の立派な館が姿を現したとき、わー、と声をあげてしまい、それがお城の庭にある乗馬博物館、と聞いてほう、とため息をつきました。お城の正面門に着いて、切符を買い、目指す入り口にやっとたどり着いたときは午後3時で、コンデ公美術館になっているグラン・アパルトメントはいつでも入場できるが、かつての城主のプライベートな館であったプチ・アパルトメントはガイドツアーのみで、本日は4時が最終、と聞かされ、8ユーロに加えて5ユーロを払って予約をし、お目当ての美術館に急ぎました。

 お城の建築美術、建築様式、多くはありませんが置いてある家具の趣味のよさ、素晴らしさに目をひかれましたが、壁一杯に並べられている絵画は1点だけでも充分、と思えるほどで、私の大好きなラファエロにみとれ、コジモ作(美しいシモネッタ)を観ては、かつて京都でみた丸紅コレクションの至宝、ボッティチェリ(シモネッタ)を思い出し、初めてみるシャンテイの陶器コレクションに目を丸くし、歴史ファンにはお馴染みのキャラが溢れかえっている16世紀の肖像画コレクションの王家の人々との邂逅に喜びました。いままでお目にかかったこともなかったひげなしのフランス国王フランソワ1世、彼の第一王子で本来次期国王となるはずだった急死した王太子、次男アンリ王子の可愛らしい乳幼児期、アンリの后となったカトリーヌ・ド・メデイシスの少女期、フランソワのライバル、スペイン国王カロルス5世の姉で、彼の2度目の后としてフランスに嫁いだエレオノーラ、とドラマの主人公が綺羅星のごとくびっしりと並んでいました。

 プチ・アパルトメントは一転して、人が住んでいた気配を感じさせる居心地の良さを感じました。このお城の最初の主コンデ家は第一帝政期ころに断絶し、次の城主となった別の家門も今はなく、個人所有の美術館となっています。こんな素晴らしいお城、庭園を8ユーロでみられるなんて、と大満足で、馬の博物館、乗馬ショー、庭園を回れなかった残念さはあるのですが、ついに閉城時間となってしまい、駅に向かうべく切符売り場のマダムにお願いしてタクシーに電話をかけてもらったのですがあいにくと皆出払っているといわれしかたなくとことこと駅まであるいていたら、道のそばの木立をウサギが走っていくのがみられたり、と散策も悪くない、と思っていたらどんどんまわりは薄暗くなって心細くなっていき、一本道が3つに分かれるところにきてしまった時、そこのガレージにライトのついた車を見つけ、ムッシューに道を尋ねたところ、自分は今仕事が終わって帰るところで、駅まで行くから乗っていきなさい、といわれ、どうしようか、と思ったものの、いざとなったら、どのように反撃しようかと心つもりしておりましたが、1分もしないうちに駅前まで来て降りることが出来ました。運がよかっただけかもしれませんが、あの親切なムッシューにお礼をもう一度申し上げます。

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パリ編37、帰国前

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 11月最終週頃から、大通りにはイルミネーションが美しく輝き、クリスマスシーズンなのだな、と心踊り、楽しい気分にさせてくれます。日本は商業的に盛り上がっているだけだ、と批判されることもありますが、ここパリでも少しは商業的なにおいを感じます。しかし、イベントとしては楽しいものであるのはフランスでも日本でも同じなようです。研修修了の22日の夜、シャンゼリゼ通りまで足をのばしたところ、あの大通りの両脇の歩道の街路樹にもイルミネーションが輝き、まるで星があちことでふっているようで、お店もそれぞれ工夫のあるイルミネーションで明るく、いままでこんな光景をみたことがなかったので、感動してしまいました。クリスマス、年末、となるとどのように変わっていくのかしら、とこのときはみられないのが残念に思いました。

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 シャンゼリゼまでわざわざ足をのばしたのは、ラデュレによってみたかったからで、お目当てのケーキはイスパハンでした。エルメのお店で既に2回買って味わっていますが、かつてエルメがいたこのカフェで食べたかったので、込んでいるのは承知で並んで待っていたら案外早く2階の窓際の席に座ることが出来、どうやらまだ残っていたようで、ついに念願かなって目の前にそのケーキが運ばれてきた時、万歳、と叫びたくなりました。内容、構造はエルメのお店と当然ながら同じものでしたが、兄弟かいとこか、という感じで、甲乙つけられませんが、違いを感じました。

 帰国前にはやるべきことをまずして、つぎにしてみたいこと、いきたいところ、とあれこれあり、学校に通っている間にあちことに足を延ばし、ケーキ屋さんもわりとよく通っていたのですが、最後がちかくなると未練がでてくるものらしいです。旅行時とは又違っているのは知り合った人達との別れがある、ということであり、それを思うとつい、トウールを去るときの悲しさを思いだしてしまいますが、折角知り合えたのだからそれが続くようにしたい、と考え、お手紙を書こう、折り紙の新作をマスターしよう、とまず考えています。 

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パリ編41、帰国直前の話

 11月30日がついにやってきました。家に帰れるのは嬉しいのですが、知り合えた人達とお別れするのは悲しいし、今までの旅行では感じなかった寂しさも湧き起こりました。その度にお別れはあったし、悲しいな、と思ってきましたが、旅行はそこが自分の居るところではない、という前提はあったけど、今回は生活があった、15週間、ここに住んでいたから、と思い、引越しでお別れは悲しいとはこういうことだったのか、と思いました。

 でも、人間関係が続くか、そうならないかはその後の話だし、お別れで終わらないようにしていきたい、それにはどうしたらいいかしら、折角得られた縁を手放さないでいたい、自分からの働きかけはしていきたい、と手紙、E-メイルはこまめにしていこう、と私なりに考えてみました。

 私の退去する30日の午後には次の借家人が鍵を受け取りにやってくる、と管理人ジャニさんから聞かされていましたから彼女の負担をなるべく軽くしたい、とベットシーツ、枕カバー掛け布団ケースは全て洗ってアイロンをかけておき、前夜は日本から持参してきたシーツに包まって寝ました。自分が起きてからベットメイキングをして取り替えておき、冷蔵庫には何も残さず、調味料、オリーブオイル以外は全て食べ切り、掃除ももう一度やってからごみを全て捨てました。ジャニさんは朝のコーヒーでも、と声をかけてくれましたが、残念ながら時間がなく、あれこれしてスーツケースのふたをしめて入り口まで持っていこう、としたら、予約しておいたリムジンタクシーがやってきました。ジャニさんに部屋の鍵をお渡しし、挨拶をしたら、突然涙がこぼれてきて止まらなくなりました。あまり時間がなかったのですが、挨拶はちゃんとして、お手紙書きます、と約束し、タクシーに乗りました。ジャニさんは車が見えなくなるまで手を振って見送って下さいました。彼女はノエルには故国ポーランドから軍隊にいる息子さんと学生の娘さんがフランスにやってきて一緒に過ごせる、と嬉しそうに話してくれました。彼女の健康と、家族揃ってポーランドで暮らせる日が早く来ますように、と願っております。

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