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その4-1、レンヌ、そしてナント、最後の大公女アンヌを辿る

 この二つの町は16世紀にフランスに併合されるまでは、大国ブルターニュ公国の一部でした。ブルターニュ、といえば、数年前に大流行したクイニー・アマンがブルターニュ地方伝統銘菓であり、独特の人名があり(ロイック、など)、ブルトン語を話し、独特の文化を持つ個性的な地方都市、と紹介されるでしょうか。また、私のお気に入りのお菓子のひとつに塩味のきいたサブレ、ガレット・ブルトン、サブレ・ブルトンがあり、これはガトーの構成要素としてもよくみかけます。(ピエール・エルメのお店の商品にもありました)ただ、私にはなぜ、レンヌはブルターニュ地方なのに、ナントはロワール地方としてガイドブック(地球」の歩き方)で分類されているのか不思議でしたが、フランスに来てからあれは現在のフランスでの考え方で、かつてはそれだけ広範囲を支配した巨大な公国であったから、と考えました。おそらくは当時は国王をしのぐほどの富をもつ先進的で洗練された文化国であったのではないでしょうか。私は、トウールに居た時、14世紀から16世紀において栄えたこの国の最後の大公女であり、ただひとりの正当な跡取りでもあったアンヌ・ド・ブルターニュ(1477ー1513)に興味を持ちました。

 ロワール古城物語という本があれば、ヒロインの一人ともいえるし、シャルル8世、ルイ12世と二人の国王の妃としてフランス史にも登場し、決して巨大な歴史の小さな歯車のひとつではないアンヌですが、なぜか日本では知名度が低いように思えました。(私が彼女を知ったきっかけは、ハプスプルグ家の歴史を調べていた時、ハプスブルグ家のマルガレーテ皇女と婚約していたフランスのシャルル8世がそれを破棄してまでブルターニュ公家のアンヌと結婚した、というエピソードです)トウールには大聖堂があり、そこにはシャルル8世の子供2人のための棺が置かれていますが、それをみた時その小ささにはっとし、そこに眠っているのは夭折した僅か4歳足らずの王子と生後25日しか生きられなかった王女で、母親は王妃アンヌ・ド・ブルターニュ、とそれまで私のなかでばらばらだった知識を結びつけるラインとなりました。その後、訪れたアンボワーズ城はシャルル8世と王妃アンヌの宮廷があったところで、フランス王家の百合と、ブルターニュのシンボルのひとつで彼女のマークでもある白テンの尻尾をデザイン化した紋章をあちこちに発見し数世紀のときを超えて彼女に出会えたように思えました。(なんで白テンなのか、お城のガイドさんに聞いたところ、アンヌはこの動物の毛皮が好きだったから、と言われましたが、これはジョークでしょうか?)お城のチャペル入り口には祈る王シャルルと王妃アンヌ、そして夭折した3人の王子が天使の姿で共に彫られていて、胸が詰まりました。亡くなった王子達はブルターニュ所有権のこともあり、シンボルマークが与えられていてそれが家具調度品に彫られていていかに大切な存在であったか伺えます。内部にはレオナルド・ダ・ヴィンチのお墓があり、誰かが手向けたらしいバラの花があり、偉大なる芸術家の後姿まで目に浮かぶようでした。

 ロワール古城のひとつ、ランジェ城はアンヌとシャルルが結婚式をあげ、婚姻の書類にサインがされたところです。ブルターニュはアンヌ生前は独立が守られ、その死後(1514年死去)さらに20年後の1534年にフランスに併合されました。ここにはバスなど公共交通機関がなくて車がないといけないため、訪れることはできませんでした。

 王と王妃が住んでいたアンボワーズ城はロワール川沿いにある城塞で、いかめしいつくりですが、華やかな宮廷生活もあったであろうと思われます。しかし、14歳で結婚し、シャルル8世がこのお城の鴨居に頭をぶつけて亡くなってしまうまでの8年間で6人の子供を授かりながら皆失ってしまった王妃には宮廷の賑やかさはわずらわしいものであったのかもしれない、と思ったのは、500mほど離れたところにある、レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年の3年を過ごしたクロ・リュッセの館を訪ね、そこの礼拝堂(アンヌ・ド・ブルターニュ小礼拝室)はかつてはシャルル8世が王妃のために建立したものである、という日本語の説明文を読んだときです。(幼い子供達を亡くした王妃はしばしば宮廷の喧騒から離れ女性が流す涙でもっとも悲痛な涙を流しにきては祈っていた。)

 シャルル8世が28歳で急死し、アンヌは22歳で未亡人となりました。あとをついだのはいとこで、即位してルイ12世となりましたが、ブルターニュを失わないために、先王の王妃と結婚しました。すでにルイ11世の王女と結婚していましたが、ブルターニュが持参金であるアンヌを手にいれるために、チェーザレ・ボルジアの父親でもあったカトリック史上悪名高いときの法王アレッサンドロ6世と手を結んでまでして離婚を成立させ、アンヌを迎えました。ルイとの結婚生活約14年、授かった子供で成人したのは王女クロード・ラ・フランスただ一人で、彼女も長生き出来ず、いとこにあたるヴァロア家のフランソワと15歳で結婚し7人の子供を生んで25歳で世を去りました。(1525年死亡)フランソワは舅ルイ12世の死後王位を継ぎ、フランソワ一世となりました(1515年即位)。この王様はルネサンスの王、と言われ、教養人であり、レオナルド・ダ・ビンチの最後のパトロンとしても知られています。国王即位の翌年1516年にダ・ビンチは王の招きでフランスに移り住み、3年後に世を去りました。このクロード王妃の名はフランスの特産プラムに残されています。(レーヌ・クロード、夏の終わりごろに出回る青いプラムで、少々高いのですが皮が柔らかくてとても甘く、そのまま食べても、お菓子、ジャムにも使えます。)トウールでのホストマザー、フランソワーズは毎朝、お手製のおいしいレーヌ・クロードのジャムをパンと一緒にだしてくれました。忘れられません。

 パリ郊外の町サン・ドニには王家の墓所、サン・ドニバジリカ大聖堂がありますが、そこにアンヌは2度目の夫ルイ12世と共に眠っており、娘クロードと義理の息子フランソワ1世の棺も近くに置かれています。偉大といわれたブルターニュ大公フランソワ2世と二度目の妻、マルガレーテとの間に生まれ、僅か14歳で両親を失い、広大な公国を背負ったアンヌ、国の独立を守るためフランス王との結婚を決意するまでの心の葛藤はあったのか、それは民を守るための、当然で迷うこともない選択であったのか、女としての、母としての人生には幸せなことはあったのか、と棺の上にルイ12世と並んでいる痩せた殆どなにも身にまとっていない彫刻をみて語り掛けたい気分になったのですが、現代人の考えでは推し量れないものがある、と、帰国後に塩野七生さんの著作を読み直してみたら少しはわかるかしら、と考えました。

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