滞在中訪ねた地方都市

その3、メッス、ナンシー

Dscf2041 大聖堂の前広場のお菓子屋さんJEANで食べた(PARIS-METZ)です。マカロンの鮮やかな色にひかれました。

 11月17日は研修中の休日で、パリから少し離れた地方都市に行ってみたい、とその数日前ですが、地球の歩き方をひろげてみて、目に入ったのはドイツ寄りの地方都市で僅か1/4ページ分の記事しかない、簡単な地図さえ載せられていないメッスでした。古い町で大聖堂もある、とあり、では行こう、と決め、そこまでいくのなら、ナンシーにも、と、帰り道にパッシー通りにあるSNCFブテイックでTGV のチケットを予約しました。11月16日は朝7時からお店に行き、午後1時までいましたが(日曜日はお店は午後2時に閉まります)、連日大忙しのマキシムはお休みで、(前日の夜でしたが、彼はクロカンブッシェを製作してました) シェフとジャン・ミシェルが忙しく働いておられ、私はシェフの横で少しは作業をさせていただけました。私でも少しは力になれたのなら嬉しいことです。お店の前の通りでは古物市が立っていて、そのせいかお客さんが多いように思いました。シェフは週末は特別なお菓子をお店に並べておられますが、この週はエクレアで、仕上げにマーブルチョコレートのようなものをエクレア表面につけたり、パッション・フルーツのクリームを詰めて黄色いフォンダンをかけたエクレアが登場しました。私はエクレアにクリームを詰めていきましたが、シェフがひとつを見て(これにはクリームが充分詰まっていないよ)と、いわれたらその通りでした。

アール・ヌーボーの都、として知られ、数々の銘菓があり、(領主として君臨したスタ二スラス・レクチンスキーが美食を好んだことも大きい)ナンシーは是非行きたいところであったので10月に既に訪れていました。駅前にナンシー銘菓やロレーヌ地方の食器メーカー、ルュネヴィルの製品を扱っていて、サロン・ド・テもあるお店を発見してベルガモット風味のマドレーヌ、ロレーヌの特産品西洋スモモ・ミラベルの砂糖漬け、スタニスラスの名のついたショコラのお菓子を買い求め、アール・ヌーボー建築の店内での食事や喫茶が楽しめるブラッスリーでコーヒーで一休み、ルレ・デセールの本でも紹介されている、ANDRE THIEBAUTシェフのお店で美しいケーキ達に出迎えられ、味わってみてその美味しさとパリでは考えられない値段の安さに驚き、ここのスペシャリテ、といわれたパテ・ド・ロレーヌ(白ワイン、スパイスに漬けた豚肉をパート・フィユタージュではさんで焼いたもの)をも食べました。市役所のある建物・オテル・ド・ヴィル、アントワネットがフランスに興し入れした時に宿泊し、今はデラックスなホテルとなっている館、美術館、オペラ劇場に囲まれているきらびやかなスタニスラス広場は花が咲き見事な彫刻で飾られた噴水に目を見張り、美術館ではガラス工芸品のコレクションそれはガレやドームといった有名作家の製作した作品ではありませんでしたが、これだけの作品を生み出したのがここナンシーなのだな、と感動し、学芸員のマダムにはこの美術館の歴史とあわせてナンシーの歴史まで丁寧に教えていただき、内部が公開されていたオテル・ド・ヴィル見学では豪華な建築に見とれ、大聖堂も見学し、カリエール広場を歩いた時、両側の並木はすでに葉が黄色く(枯れていたのか)なっていて、すでに秋の気配を感じていました。あれから1ヶ月以上たてばもう冬で、すっかり町も空気も色が変わっているだろうな、と思いつつ、でも、もう一度あの町を訪ねたい、と2度目のナンシー行きを決めました。

 パリ東駅から朝7時台のTGVに乗り、まだ薄暗くて車窓からはなにも見えず、うとうとしているうちにすでにアンジェ駅を過ぎ、メッツの駅で降りたときには太陽は輝いていましたが冬の弱い光で、駅前の広場にはクリスマス・ツリーが飾りつけ途中で、同じフランスでもまるで風景、空気は異なり、異国にやってきたようで、ここはドイツの影響が色濃い、と駅前のケーキ屋さんのドイツ語表記されている商品をみて思いました。クグロフも見つけました大聖堂のある町の中心部までは、商店街を通るバスで行きましたが、どこも華やかで明るく、皆で待っている楽しいイベント期間なのだ、と感じ、24日の一日がすべてであるかのようなイベントの日本でのクリスマスの楽しみ方とは違うと思いました。大聖堂は想像していたより古びて黒く、改修、補修のための足場に囲まれているようで、内部も足場が立てられてその下を歩いていると工事現場に来た様でヘルメットが必要かなとさえ思いました。ここにもシャルトルにあった黒いマリア様を思い出させる聖母子像があり、シャガールのステンドグラスは太陽の光を背に神秘的な輝きをみせていました。大聖堂の向かいの建物の一階にはケーキ屋さんがあり、メッス特産のミラベルを使ったジャム、キャラメル、ドロップ、パート。フリュイが売られていました。ケーキはなにかあるかしら、と覗いていたら、お馴染みの商品のなかに、とてもカラフルなものをみつけました。お店のドアにもカラー写真つきの広告で紹介されている、アルルカンというマカロンを用いたパティスリーでした。ルレ・デセールの会員シェフのお店はあるのですがあいにく定休日なので、ここでお茶を飲もう、と決めました。 この町には3時間しか滞在出来ないので、次の目的である、ジャン・コクトーのデザインによるステンドグラスのあるサン・マキシマン教会へと急ぎました。平日なのにあまり活気を感じられない商店が両側に並んでいる(殆ど閉まっていました。定休日なのでしょうか)石畳の道を早足で歩きたどり着いて、もし入場できなかったら、と思いつつそっと重い木の扉を押したりひいたりしたら、音があまりたたずに開きました。だれもいなくて、静まり返った教会はステンドグラスを通って入ってくる光であたたかな雰囲気があり、ゆっくりしたくなりましたが、それは出来ず、せめてお目当てのステンドグラスを一枚ずつ見学いたしました。

 再び大聖堂のある広場に戻り、先ほどみつけたケーキ屋さんであのケーキとコーヒーを味わいました。価格はサロン・ド・テでは4ユーロでパリよりは安い設定に思いました。カラフルな2枚のマカロンにはバナナ風味のクリームとフランボワーズがはさまれていました。クリームはやや固いようで、でも口どけ、風味はよく、後をひくおいしさで、フランボワーズとの取り合わせがいいな、と思いました。メッス名物ミラベルジャムを買いました。

 バスに乗って駅に戻ると電車の発車時間まですぐでした。後ろ髪を引かれる思いで、次はもっと時間に余裕を持ってこの町を歩きたい、下調べをしてから、再訪問したい、そばまで行けたけど散歩できなかったモーゼル川沿いの遊歩道を歴史散策したい、ケーキ屋さんを探したい、とあれこれ思いつつ電車で40分の次の目的地ナンシーへ向かいました。

 2度目のナンシー訪問でしたが、残念なことにはアール・ヌーボー作品を展示しているナンシー派美術館は閉まっていて、今回も見学できませんでした。月曜日はお休みのケーキ屋さんが多いのですが、前回、心残りがあった焼き菓子、ヴィジタンディーヌをついに買えました。このお菓子はアーモンド粉、、卵白、焦がしバターを用い、フィナンシエとよく似ていますが、長方形の型(金の延べ棒を思わせる)で焼かれるフィナンシェに対し、花のような丸い独特のヴィジタンディーヌ型で焼かれます。(大森由紀子さんの本で紹介されていますが、楕円の焼き型でも作られるそうです)

 スタ二スラス広場にある、かつてマリー・アントワネットオーストリアからの花嫁道中で宿泊し、今はデラックスホテルとなっている、グランドテル・ド・ラ・レーヌのサロン・ド・テに入りました。マリー・アントワネットの白い胸像が階段の踊り場に飾られていて、バラの芳しい香りが漂う上品なホテルで、トイレットにはバラの生花が生けられていました。

Dscf2045 大きなカットのミラベルのタルト、ドイツで食べたフルーツの焼きこまれたリンゴタルトを思い出しました。

 サロン・ド・テのケーキはタルトが2種類で、アプリコット、ミラベル、でした。ドイツでみかける大きくカットされているタルトそのものを思わせ、ここはフランスでもかつては独立した公国だったのだ、と考え、名物ミラベルがたっぷりのったタルトを味わいました。しかし、メッスよりはフランスの香りを感じ、ドイツの影響は強くはないようにも思いました。マドレーヌにベルガモット風味の商品があるなんて知りませんでしたが、あいにくと私の好みの香りではなかったのが残念でした。前回のナンシー訪問ではルュネヴィルのお皿は買ったのですが、今回はついに私を呼ぶテイーカップに出会いました。やや大きいカップには今までみたことが無いデザインのバラやチューリップといった花が描かれていて、これでお茶を飲みたい、マドレーヌを添えてみたい、と思いました。高価な商品でなかったのも購入の決め手になりました。

 帰りのTGVまでは約1時間の残り時間は散策に費やしました。

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その4-3、最後はナントへ行きました。

Dscf2104 パッサージュ・ポムレはノエルの雰囲気がすでにありました。写真は3階へ登る階段から撮りました。

フランスでの20週間の滞在もあと3日となってしまった11月27日、最後に行ってみたい地方都市は、と考えてみましたが、かつてのブルターニュ公国の首都でもあり、西のパリとも言われ、中世には華やかな宮廷文化に彩られた町、ナントの勅令、でも知られていて、私の好きなロワール川沿いの歴史都市ナントに行こう、と朝7時30分、パリを発つTGVのチケットを予約しました。

 9月中旬にパリからロワールの古城ショーモン・シュル・ロワール城を訪ねたときには明るかった朝7時前のパリでしたが、11月ともなると暗くて、夜行電車に乗るような気分でした。時間通りに発車して窓から見えるのは薄暗くてしかも霧がたちこめていたため、これからどこにいくのかしら、と思いつつ、乗り心地の良い座席でうとうととし、目がさめたらすでにロワール地方を列車は走っておりましたが、どんよりと雲がたちこめた空はかつてトウールに居た時毎日眺めていた明るさはなく、ステイ先のマダム、フランソワーズが話してくれた冬の天候を思い出させました。ナント駅に着いた時は小雨もふっており、寒さがこたえましたが、駅の出口を出てトラム(路面電車)の走っている大通りに出て少し歩くと、いかめしい石つくりのブルターニュ大公城が視界に姿を現し、フランボワイヤン様式による石つくりの歴史的建造物とすぐにわかり、ああ、ここだ、と初めて訪れた場所なのに、すでに見た風景のように感じました。お城は今はナントの歴史を展示している博物館となっていて、この周辺には大聖堂、美術館、古い門、と見所が多く、どこにいこうか、と迷いましたが、まずは大聖堂へ足を運びました。大聖堂のそばの広場には、アンヌ・ド・ブルターニュの銅像が建っており、碑文には良き女大公、とあり、ああ、ここはやはり彼女ゆかりの地なのだ、と思い、大聖堂に入ると、ブルターニュ特産の白い石で壁がつくられているせいか、それまでに訪れた大聖堂とは違う明るさに驚きました。説明によると、1972年の火災で大部分が被害を受け、塔やステンドグラスなど再建されたとのことで、そのせいか、壁の下部と上部は色が違うようでした。

 この大聖堂には、ブルターニュ大公国が全盛を極めた時の大公フランソワ2世とその妻(アンヌ・ド・ブルターニュの両親)の墓があります。ルネッサンス彫刻の傑作といわれているそのすばらしい装飾をみていると、以前、パリのサンドニバジリカ大聖堂のフランソワ1世とその妻でありアンヌの娘クロードの墓の彫刻(これより壮大でした)を思い出しました。ただ一人の跡取り娘が14歳では、親は心配だったのか、どれとも、一国の跡取りとして育てたのだから、あとはまかせるしかなかったのか、と並んで横たわっている2人をみてあれこれ想像しておりました。通路に沿って歩き、ステンド・グラス、彫刻、小さなチャペルなどを見学し、ろうそくをともし、大聖堂のまわりを歩きました。正面には観光案内所があると(地球の歩き方)には記事があったので、そこに行くつもりだったのですが、移転したのか閉鎖されたのか、銀行の支店しか見つけられず、仕方が無い、旧市街にある案内所に行こう、と思い、次のお目当てであるブルターニュ大公城へ向かいました。いかめしい石つくりの城壁で囲まれている中世のお城で、アンジェ城を思い出させました。かつてはすぐそばにロワール川が流れていたのも納得できます。跳ね橋を渡ったとき、今は整備されてきれいな庭園(出入り自由で散策できます)となっているかつては水をたたえた堀を見下ろして、このお城を陥落させるのは難しいだろうな、と想像しました。お城に入ってここで1477年、アンヌ・ド・ブルターニュが生まれた、という碑文を発見して、ついにずっと後ろ姿しか見えなかった彼女が振り向いたような気になりました。

 今は歴史博物館となっていて、ナントの歴史をたどれます。また、ここは宗教の信仰の自由を認めた(ナントの勅令)が調印された場所でもあります。今は移転しましたが、フランスの大手ビスケット・メーカーLUはこの町の代表的な工場で、ビスケットの抜き型、ローラー、当時作られていたビスケットまで展示されていました。LUのビスケットは庶民的な製品で駅の売店、いつも買い物をしている大手スーパー、モノプリその他のスーパーでもみつけられますし、京都三条の明治屋スーパーでも買えます。

 美術館ではジョルジュ・ラ・トウールの3点の絵画をはじめ、素晴らしいコレクションに目を見張りました。しかし、その時点ですでに残り時間は3時間を切ってしまい、お目当てのケーキ屋さんを探すことは困難と思われ、では、旧市街へ移動し、そこにある3階建てのパッサージュだけでも訪ねよう、とトラムに乗りました。窓からみるとブルターニュ大公城の芸術様式、それはロワール古城でしばしばみられたフランボワイヤン様式で、王妃アンヌがすごしたアンボワーズ城であちこちにみられた様式を思い出させ、ああ、ここはやはりアンヌゆかりの地なのだ、とやっと足跡をたどれた感慨がありました。

 トラムを降りたらお目当てのパッサージュまではわかりやすい、と地図をみてましたが、クリスマス・マーケットが軒を連ねている広場は混雑していて、目印になる建物を見つけられず、うろうろ歩いているうちに迷ってしまいました。品の良さそうなマダムに尋ねたところ、すぐ近くまで案内してくれました。ここフランスではこのような親切な方にはしばしば出会うことがあります。たどり着いたパッサージュ・ポムレはヨーロッパでも珍しい3階建てで。エスカレーターも途中までですが設置されています。クリスマス・シーズンとあって、明るく華やかな装飾が施されていて、入り口に立って見上げているだけでわくわくとしてしまいました。ふと左をみると、マカロンのディスプレイされたショウ・ウインドーがあり、MOFシェフのお店でした。ショコラとビスケットを売るお店でしたが、ミニサイズのクイニー・アマン、マカロンがおいしそうに整列して私を出迎えてくれているようにみえて、マカロンを100g買ってみました。値段設定は100g4・5ユーロ、とパリの一流ブテイックの半額近くで、驚きましたが、口当たりが柔らかく、とても美味しいマカロンでした。ガル二チュールはパート・ダマンドをベースにしたものばかりで今まで口にしたマカロンとはここが違いましたが、バランスのよい味で、気にいりました。ショコラは残念ながら、ボンボンではなく、ロッシェのようなごろごろしたごついもので、結局買いませんでした。

 パッサージュ3階まで上り、そこにあった出口は旧市街まで行ける通りで、石畳の道を歩いていたら、サロン・ド・テのあるケーキ屋さんに出会いました。覗いてみたらなかなか美味しそうなケーキが並んでいて、ボンボン・オ・ショコラもきれいでおいしそうに見えたので、ここでなにか食べてみよう、と入りました。見慣れない商品を発見し、マダムに聞いたところ、ガトー・ナント、というスペシャリテ、と教えてもらい、それとコーヒーを注文しました。小さなマンケ型で焼かれたアーモンドスポンジケーキを土台に、ラムシロップをふりかけ、アプリコットジャムをうすく塗ってから上面のみホワイトチョコでコーテイングしてある素朴なケーキでしたが、ラムはあまりきつく感じなかったし、おいしいな、とあじわいました。コーヒーにはガトー・オペラのプテイ・フールが」添えられていたのも嬉しいことでした。(美味しかったです)

 最後にここでショコラを買おうかとボンボンを物色していたら、このお店は老舗のショコラテイエが運営しているパティスリー、サロン・ド・テである、とマダムに教えてもらい、本店も近い、と知ったので、急ぎました。重いドアを開けてみればそこは重厚な雰囲気の歴史的建造物で、19世紀の貴婦人になった気分でした。スペシャリテ、といわれたショコラ(マスケロン・ド・ナント、フイヤンテーヌの入ったプラリネ風味のセンターにミルクチョコでコーテイング)を買いました。翌々日にクラスメートだったジャステインと会う約束があるので、彼へのおみやげにしました。

 パリへ戻るためのTGV発車までは15分しか時間がなく、トラムがこなかったら走っていこうか、とも思いましたが、幸いにもすぐに乗ることができて、ナント駅には発車5分前に着きました。2日前に尋ねたブルターニュ地方の町、レンヌには、アンヌ・ド・ブルターニュの足跡を探すことは出来ませんでしたが、1477年にここナントで生まれ、14歳で両親を失い、フランス国王と結婚してアンボワーズへと移り住んだアンヌはおそらくレンヌを訪れることもなかった、だからなにもなかったのでは、と考えました。アンヌの伝記はアンボワーズ城、アンジェ城でも見つけてはいましたが、結局買わなかったのですが、あれを読めるくらいにはフランス語学習を続けていきたいな、といつになるのかわかりませんが、目標を定めました。

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その4-2、レンヌでの発見

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大聖堂の向かいの細い通りを歩くと古い門がありました。ブルターニュ公国の歴史の証人ともいえそうです。

 パリからTGVで約2時間10分、ブルターニュ地方の玄関口で、モン・サン・ミッシェル、サン・マロなどをまわるときの起点となる町、と旅行ガイドでは紹介される、大西洋寄りで人口約21万4000人、となかなか活気のある中世のころより栄えた地方都市レンヌですが、私がここに来よう、と思ったのは、まず、お目当てのケーキ屋さんがあるのと、そして、かつてのブルターニュ公国の名残を見つけたかったから、です。

 パリを朝7時30分頃に発ち、レンヌ駅についたのは9時46分頃でした。ガイドブックにある簡単な地図をみながら、町の中心部、レピュブリック広場に向かいました、ケーキ屋さんはすぐ見つかりました。MOFシェフ、ダニエルさんのお店で、サロン・ド・テもある、とルレ・デセールのガイドブックにありましたので、期待していたら、ショー・ケースには多種類の魅力的なケーキ達がにっこりと笑って出迎えてくれたようで、どれにしようかと迷いましたが、お店のスペシャリテと、好物のモンブランにしました。価格設定は3ユーロ台で、店内で食べても4ユーロにはならない、とパリでは考えられない相場で、こんなにおいしいケーキが、といっぺんに気に入りました。

 ダニエルさんのお店と同じ通りには,MOFシェフYVE THURIESさんのショコラテイがありました。ここでもボンボン・オ・ショコラの箱を買いました。

 レンヌ美術館には素晴らしい絵画コレクションがある、と楽しみにしていたら、あいにくと工事のため、絵画ギャラリーは閉鎖されていました。仕方なく考古学の展示と彫刻コレクションを鑑賞しましたが、アラバスターの彫刻作品のアンヌ・ド・ブルターニュと出会いました。何歳のものかわかりませんが、その表情からはなにも私には推し量れませんでした。

 大聖堂もみたかったのですが、12時から15時までは閉鎖されていて、周りを歩いてみただけに終わりました。じゃあ、旧市街まで行こう、ととぼとぼ歩いていたらお土産屋さんがあり、せめてポストカードでも、とあれこれ探していたら、古めかしい石つくりの門を見つけ、お店のマダムに尋ねたところ、これは中世からの遺跡で、大聖堂の正面の通りの奥にあるし、通れる、と教えてもらい、今来た道を引き返たところ、すぐに見つけられました。(地球の歩き方)には載っていないので気がつきませんでした。

 PORT MORDELAISEといわれているその門は1440年レンヌ大公により建立、ブルターニュの自由と権利を尊重するために、と記されている説明を読み、やっとブルターニュ公国の存在を感じることが出来た、と歴史との遭遇を嬉しく思いました。この門のちかくには猫を飼っている家が多いようで、飼い猫、と明らかに分かる毛艶が良くて猫相がいい可愛い猫たちと合計6匹出会いました。でもこちらには寄ってきませんでした。気安くなでなでできて抱っこできるのは我が家の愛猫しかいない、と急にみぴこのことを思い出しました。

 旧市街の木組みの家を見たり、裁判所の前の広場のクリスマスマーケットのための木の小屋(準備中で、商品は展示されていませんでした)を眺め、ケーキ屋さんでクイニー・アマンを発見し(食べてみましたが、分厚いバターキャラメルが薄いパイ生地にのっかっている、というものでした)、最後に、あのダニエルさんのお店に立ち寄り、カラメル・ブール・サレとミルクチョコレートムースを組み合わせたドーム型のケーキ、これまた好物のミル・フォイユを味わいました。ブルターニュのシンボルはあちこちにあったものの、これといった歴史的発見はひとつだけでしたがダニエルさんのお店に行けたことだけでも充分です。

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その4-1、レンヌ、そしてナント、最後の大公女アンヌを辿る

 この二つの町は16世紀にフランスに併合されるまでは、大国ブルターニュ公国の一部でした。ブルターニュ、といえば、数年前に大流行したクイニー・アマンがブルターニュ地方伝統銘菓であり、独特の人名があり(ロイック、など)、ブルトン語を話し、独特の文化を持つ個性的な地方都市、と紹介されるでしょうか。また、私のお気に入りのお菓子のひとつに塩味のきいたサブレ、ガレット・ブルトン、サブレ・ブルトンがあり、これはガトーの構成要素としてもよくみかけます。(ピエール・エルメのお店の商品にもありました)ただ、私にはなぜ、レンヌはブルターニュ地方なのに、ナントはロワール地方としてガイドブック(地球」の歩き方)で分類されているのか不思議でしたが、フランスに来てからあれは現在のフランスでの考え方で、かつてはそれだけ広範囲を支配した巨大な公国であったから、と考えました。おそらくは当時は国王をしのぐほどの富をもつ先進的で洗練された文化国であったのではないでしょうか。私は、トウールに居た時、14世紀から16世紀において栄えたこの国の最後の大公女であり、ただひとりの正当な跡取りでもあったアンヌ・ド・ブルターニュ(1477ー1513)に興味を持ちました。

 ロワール古城物語という本があれば、ヒロインの一人ともいえるし、シャルル8世、ルイ12世と二人の国王の妃としてフランス史にも登場し、決して巨大な歴史の小さな歯車のひとつではないアンヌですが、なぜか日本では知名度が低いように思えました。(私が彼女を知ったきっかけは、ハプスプルグ家の歴史を調べていた時、ハプスブルグ家のマルガレーテ皇女と婚約していたフランスのシャルル8世がそれを破棄してまでブルターニュ公家のアンヌと結婚した、というエピソードです)トウールには大聖堂があり、そこにはシャルル8世の子供2人のための棺が置かれていますが、それをみた時その小ささにはっとし、そこに眠っているのは夭折した僅か4歳足らずの王子と生後25日しか生きられなかった王女で、母親は王妃アンヌ・ド・ブルターニュ、とそれまで私のなかでばらばらだった知識を結びつけるラインとなりました。その後、訪れたアンボワーズ城はシャルル8世と王妃アンヌの宮廷があったところで、フランス王家の百合と、ブルターニュのシンボルのひとつで彼女のマークでもある白テンの尻尾をデザイン化した紋章をあちこちに発見し数世紀のときを超えて彼女に出会えたように思えました。(なんで白テンなのか、お城のガイドさんに聞いたところ、アンヌはこの動物の毛皮が好きだったから、と言われましたが、これはジョークでしょうか?)お城のチャペル入り口には祈る王シャルルと王妃アンヌ、そして夭折した3人の王子が天使の姿で共に彫られていて、胸が詰まりました。亡くなった王子達はブルターニュ所有権のこともあり、シンボルマークが与えられていてそれが家具調度品に彫られていていかに大切な存在であったか伺えます。内部にはレオナルド・ダ・ヴィンチのお墓があり、誰かが手向けたらしいバラの花があり、偉大なる芸術家の後姿まで目に浮かぶようでした。

 ロワール古城のひとつ、ランジェ城はアンヌとシャルルが結婚式をあげ、婚姻の書類にサインがされたところです。ブルターニュはアンヌ生前は独立が守られ、その死後(1514年死去)さらに20年後の1534年にフランスに併合されました。ここにはバスなど公共交通機関がなくて車がないといけないため、訪れることはできませんでした。

 王と王妃が住んでいたアンボワーズ城はロワール川沿いにある城塞で、いかめしいつくりですが、華やかな宮廷生活もあったであろうと思われます。しかし、14歳で結婚し、シャルル8世がこのお城の鴨居に頭をぶつけて亡くなってしまうまでの8年間で6人の子供を授かりながら皆失ってしまった王妃には宮廷の賑やかさはわずらわしいものであったのかもしれない、と思ったのは、500mほど離れたところにある、レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年の3年を過ごしたクロ・リュッセの館を訪ね、そこの礼拝堂(アンヌ・ド・ブルターニュ小礼拝室)はかつてはシャルル8世が王妃のために建立したものである、という日本語の説明文を読んだときです。(幼い子供達を亡くした王妃はしばしば宮廷の喧騒から離れ女性が流す涙でもっとも悲痛な涙を流しにきては祈っていた。)

 シャルル8世が28歳で急死し、アンヌは22歳で未亡人となりました。あとをついだのはいとこで、即位してルイ12世となりましたが、ブルターニュを失わないために、先王の王妃と結婚しました。すでにルイ11世の王女と結婚していましたが、ブルターニュが持参金であるアンヌを手にいれるために、チェーザレ・ボルジアの父親でもあったカトリック史上悪名高いときの法王アレッサンドロ6世と手を結んでまでして離婚を成立させ、アンヌを迎えました。ルイとの結婚生活約14年、授かった子供で成人したのは王女クロード・ラ・フランスただ一人で、彼女も長生き出来ず、いとこにあたるヴァロア家のフランソワと15歳で結婚し7人の子供を生んで25歳で世を去りました。(1525年死亡)フランソワは舅ルイ12世の死後王位を継ぎ、フランソワ一世となりました(1515年即位)。この王様はルネサンスの王、と言われ、教養人であり、レオナルド・ダ・ビンチの最後のパトロンとしても知られています。国王即位の翌年1516年にダ・ビンチは王の招きでフランスに移り住み、3年後に世を去りました。このクロード王妃の名はフランスの特産プラムに残されています。(レーヌ・クロード、夏の終わりごろに出回る青いプラムで、少々高いのですが皮が柔らかくてとても甘く、そのまま食べても、お菓子、ジャムにも使えます。)トウールでのホストマザー、フランソワーズは毎朝、お手製のおいしいレーヌ・クロードのジャムをパンと一緒にだしてくれました。忘れられません。

 パリ郊外の町サン・ドニには王家の墓所、サン・ドニバジリカ大聖堂がありますが、そこにアンヌは2度目の夫ルイ12世と共に眠っており、娘クロードと義理の息子フランソワ1世の棺も近くに置かれています。偉大といわれたブルターニュ大公フランソワ2世と二度目の妻、マルガレーテとの間に生まれ、僅か14歳で両親を失い、広大な公国を背負ったアンヌ、国の独立を守るためフランス王との結婚を決意するまでの心の葛藤はあったのか、それは民を守るための、当然で迷うこともない選択であったのか、女としての、母としての人生には幸せなことはあったのか、と棺の上にルイ12世と並んでいる痩せた殆どなにも身にまとっていない彫刻をみて語り掛けたい気分になったのですが、現代人の考えでは推し量れないものがある、と、帰国後に塩野七生さんの著作を読み直してみたら少しはわかるかしら、と考えました。

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その1、アンジェ

Dscf1623 アンジェ城を見たとき、身震いがしました。

 パリは世界中の人を魅了させてくれる素敵な街ですが、フランスは地方都市もガイドブック、テレビ番組等でもしばしばとりあげられるように北にも南にも東にも西にも一度は行ってみたいところばかりで、パリ到着後は市内名所見物、住んでいるところの近辺探索、マルシェやスーパーチェックを学校が休みの日にしていましたが、折角ここに住んでいるのだから、旅行中では無理だった地方都市日帰り旅行もしてみたい、とロワール古城のひとつで以前から気になっていたショーモン・シュル・ロワール城を皮切りにパリから片道2時間以内でいけるところから選んでは週末は日帰り旅行を楽しみました。

 アンジェはロワール川沿いにある中世から栄えた街で、私はここには地方での伝統菓子、クレメ・ダンジェがある、と中学生のときに読んだ同市出身で当時女子栄養大学が運営している製菓学校で講師をされておられたセルジュ・フリボー氏がどこかで書かれていた文章を読んで以来、いつかここに来たい、と願っていました。日本では東京市が谷にあるパティスリー・シーマで買って味わったことはあります。パリのマルシェでは似てはいるけど違う名前のお菓子に遭遇しました。(フォンテイーヌ・ア・ラ・クレーム、といわれていました)

 パリからTGVで1時間30分かけて、アンジェ駅に着いた時、もう10月第2週に入っていたのに空は青く澄み、太陽は明るく、トウールに居た時毎日眺めていた太陽、空、いつも吸っていた空気そのものを感じ、まるでふるさとに戻ったかのような気分になりました。この街には大学、語学学校が多く、各国から留学生が集まる(人口の1割は学生さんといわれています)せいか、古い街ながら活気と明るさに溢れていて、日本からも多く留学する方も住んでいるせいか、駅員さんが日本語で挨拶してくれたときにはびっくりしました。(パリではアジア人は中国か韓国、と思われることが多いもので)

 アンジェ城や美術館にいくには市内中心街までいくことになります。駅員さんはすぐ、といっていたし、ガイドブック(地球の歩き方)にのっている簡単な地図を見つつ歩いていくことにしました。駅前にはパン屋さんが3軒近いところに点在していました。おなかがすいていたこともあり、それぞれのお店で一個ずつなにかしら買って味わってみましたが、どれも美味しいパンでした。すっかりこの街が気に入ってしまい、いい気分で歩いているうちに目指すアンジェ城についてしまいました。ルネサンス期より数世紀も前の敵からの侵略から国を守るための軍事的ないかめしいお城で、がっちりした城塞とそれを取り囲むようにして周囲には深い堀のあとがあり、かつての入り口には跳ね橋が固定されていましたが入場者を拒むかのようにな雰囲気がありました。そこを渡り、今は木や花が植えられて綺麗に整備されている堀あとを上から眺めると、高所恐怖症の私は足がすくみ、塩野七生さんの名著(チェーザレ・ボルジア)中で囚われの身となった主人公が幽閉されている塔から脱出する場面を思い出しました。城塞の上は歩いてまわれるようなつくりで、あちこちに花壇が作られていました。教会、中庭、かつて城主が住んでいた館、かつての大広間の壁の一部を眺め、このお城の最大のコレクション、(ヨハネの暗示録のタピスリー)が展示されている博物館ではその大きさにはほー、とため息をもらし、そこに描かれている悪のシンボルの怪獣や、それらをあがめる人間たち、美しい顔の女性が鏡をみるとそこには醜い老女が移っている、怪獣との戦い、など表現が面白く、人物などの背景にある花は独特なタッチでで織られているのをみました。

 お城をでるとつぎは旧市街、美術館、大聖堂、と見所が多く、木骨組みの家が多く残る旧市街を歩くとここがトウールで、語学学校のすぐそばのプリュムロー広場にいるようでした。カフェ、レストラン、ショップ、ブテイックが並んでいる賑やかな商店街にはケーキ屋さんも数軒発見しました。ルレ・デセールのガイドブックに紹介されていたお目当ての店は見つけられませんでしたが、偉大なるバレエ振り付け家ローラン・プテイ氏と同名のパティスリーがあり、ケーキが美しく、美味しそうだったので、ためしにマカロン一個買って食べてみたら美味しかったので、ミルフォィユ・カラメル、ルリジュース・アプリコを買いました。図書館の庭のベンチに座って味わいましたが、美味しかったです。

 はるか古代から人が住み、中世にはかつてこの一帯を支配していたアンジュー公家の首都として華やかな宮廷文化が花開いたこの街は来年、アンジュー公ルネ2世の生誕600年で各種イベントが開催予定だそうです。隣国にはやはり大国ブルターニュがあり、シャルル7世王妃マリーもこのアンジュー出身です。また、イングランド王家、百年戦争とも関わりの深いところで、そのあたりの歴史は残念ながら詳しくなく、もっと勉強してから再訪問すれば、歴史の足跡を多く発見出来て、数世紀を超えて歴史上の人物達と交流が持てたのに、とそれが心残りとなりました。

 この街は、アーモンドヌガーをブルーに着色したホワイトチョコレートでコーテイングしたアンジェの屋根瓦、(QUERNANS D‘ARDOISE)といわれるお菓子、ここで生まれたホワイトキュラソーの代名詞ともなっているオレンジのリキュール、コアントローを使ったキャラメルがスペシャリテです。10月25日から11月2日までパリで開催された(サロン・ド・ショコラ)でもこのチョコレートでコーテイングされたお菓子をみました。6ヶ月保存ができるとのことで、ためしに買ってみました。ヌガーは薄く、ごつさもなく、思ったよりはたやすく砕けて食べやすかったし、香ばしくおいしいお菓子でした。

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その2、サン・ジェルマン・アン・レー

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 パリからRER線Aに乗って、エトワールから約20分で行けるこの古い町は週末にパリからふらっと訪れるにはいいところです。駅を降りて階段を上って地上にでると目の前には古めかしいお城が目に入ります。ここは12世紀に国王ルイ6世によって丘の上に築かれた要塞が始まりで、その後、16世紀にフランソワ1世が改築したものが今日残っているもので、かつてはもっと多くの建物がありましたが、今は消失し城の一部であったルイ14世生誕の館は4つ星デラックスホテルとなって、考古学博物館となったお城から少し離れるようにして現存しています。

 考古学博物館となっている建物は、ガイドツアーで屋根まで上れますが古いお城のため、人数限定となっています。私が訪れた9月の日曜日は最終ツアーに申し込めたので帰りの電車を遅らせて参加しました。地上37mの屋根の上はフランソワ1世の紋章F、王のシンボル、サラマンダー(空想上の怪獣の火吹きトカゲ)をいたるところで発見出来ました。(フランソワ1世が建てさせたロワールの古城、シャンボールの日本語による案内パンフには、サンショウウオ、と訳されていました)屋根からはパリの中心部が見渡せ、エッフェル搭、モンパルナスタワーも視界に入りました。高所恐怖症の私は最初はおっかなびっくり、おそるおそるそろそろと歩いていましたが、歴史の話になると、ようやく恐怖が少しはなくなりました。

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 この町には来たのは、ルレ・デセール会員のMICHEL POTTIERシェフのお店、柴田書店の発行誌(カフェ・スイーツ)のバックナンバーにあるパリガイドで紹介されていたお店B・OLIVIERを訪ねるのも目的でした。ケーキは2つのお店で買って味わってみましたが、どちらも美味しく、値段的にも良心的でしたが、私はMICHEL POTTIERのほうが気に入りました。比較的新しいお店のB・OLIVIERに対してやや古めかしさを感じさせるシックな店でしたが、古典的、伝統的なお菓子も、デザイン、色遣いにモダンさを感じるお菓子も揃っており、お菓子の各部分がきちんと作られている、と感じました。このお店のスペシャリテ、とマダムが教えてくれたルリジュース・ヴィオレットは中につめられているヴァイオレットクリームはブルーなのにまずびっくりし、一番上にはスミレの生花にグラニュー糖をまぶしてから乾燥させたものが飾られていたのには感心してしまいました。ヴァイオレットの芳しい香りを感じつつ駅のベンチで食べたのですが、美味しかったです。クレーム・パテイシエールのはさんだミル・フォイユはラム酒が効いていて、私にはきつすぎました。プラリネ風味ミルフォイユはとても美味しかったです。この他には、女性オーナーがお菓子教室も開催している、小さなお菓子を売っている(プテイ・ガトー)という可愛らしいお店もあり、ここではエプロン、お菓子器具も売られています。

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