2011年11月 5日 (土)

パリのエルメのケーキ

 パリには多くの日本人(女性が多いように思います)ジャーナリストが生活者として住んでおられて、日々日本に情報を発信されているため、日本にいながらにして多くの情報を得ることが出来ます。インターネットの普及により、旅行者で情報を発信する手段もいまや当たり前に手に出来るというかつてフランスがセピア色の写真でしか姿を現さなかった頃(そんなに昔のことではありませんが)には考えられないことです。

 数多く存在し、入手できる情報を手にケーキ屋さんに行く楽しみもありますが、旅先でたまたま見つけたお店でケーキを味わってみたり、期間限定ケーキ(エルメのお店でシーズンごとに登場する新作ケーキなど)を目にできるのはそこにいることのできる幸運か、と思います。

 いまやフランス菓子界の巨匠であり、ピカソともあだ名されている日本にもファンの多いエルメのお店のケーキは、食べれば、見たら幸せになれるケーキではないでしょうか。確かに高価な商品ですが、味わってしまえば幸せのカーテンにすっぽりと包まれてしまう喜びのケーキと思えます。秋にだけお店に並ぶモンブランは今回残念なことにはまだでしたが、抹茶を使った宝石のようなマカロンのケーキを味わいました。

 (Depayse)という名のこのケーキは抹茶マカロン、抹茶ガナシュ、レモンとしょうがの風味の小豆粒餡の取り合わせです。翡翠のようなマカロンを崩してしまうのは残念でしたが食べないと値打ちがない、とパリ郊外のフォンテンブロウのお城に向かう電車の中で味わいました。なにも言う必要なし、たべていると嬉しさと喜びで顔が崩れてくるのが分かるケーキでした。

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トウールのケーキ屋さん

 パリでも今まで訪れた街でもパン屋さん、ケーキ屋さん、両方兼ねているお店は100mも歩いてみればすぐに見つけられます。京都でおまん屋さん(大福や桜餅など普段口にする普通の和菓子やお赤飯を売っているお菓子屋さん)、寺町通りでお寺を見つけられるのと同じ位当たり前に存在しています。ただ、中間クラスと判断できる味のお店は多くはなく、ピンかキリかはっきりとしている、と思いました。

 ここトウールにはルレデセール会員のクリストフル・メナール氏のお店があり、3年前にはケーキを買う機会がなかったのですが、今回は到着後すぐにお店にいってみました。

 ケーキの他、ショコラ、マロングラッセ、キャラメルなど砂糖菓子、トウール銘菓ヌガー・ド・トウール、プリューノ・フレ、とパン以外の商品が美しく置いてあるお店の中は明るく、他のケーキ屋さんにはない煌めきを感じ、パリのお店に来たような気分です。価格的にはパリよりはやや安いかな、というところです。ここのプリューノ・フレはアプリコットのジャムのようなものがプラムにぱんぱんに詰まっており、フレッシュさを感じます。ケーキは木苺のタルトレット、ヌガー・ド・トウールを買ってホームステイ先だったお家訪問のお土産にしました。木苺は日本で見られるアメリカ産より紅くて柔らかく、香り高く愛らしさもありました。どちらのケーキも美味しくて満足です。ショコラも美味しかったです。

 以前のトウールでの生活は学生として語学学校に通い、美術館や名所探索はしていたもののホームステイ先と学校の往復で、ケーキ屋さんに行く機会は多くはなかったのですが、通学道のひとつであった目抜き通り沿いにサロン・ド・テのあるしゃれたケーキ屋さんがあり、そこには今回一回は行きたい、と思っていましたがなかなか時間がとれず、ランジェ城訪問前、少ない時間でしたがやっと叶いました。サロン・ド・テのあるケーキ屋さんではケーキの価格は持ち帰りかそこで味わうかによって値段が変わるのですが、サロン価格のほうが高くなります。(持ち帰りは上乗せはありません)どの位高くなるかはお店によりさまざまですが、パリ・16区トロカデロ広場の一角にある有名なカフェ・カレットではもとの値段の50%分上乗せされます。このお店では上乗せはありませんでした。ケーキの味は中の上、と思いました。サービスも心地よく又行きたいと思えるお店でした。

 patisserie-chocolatier-glacier   DAUSE    19bis avenue de Grammont 37000 TOURS     tel 0247642943 日午後、月休、火ー金9時から13時、14時30分から19時

 美術館のすぐ近くにあるケーキ屋さんは一度立ち寄ってすっかり気に入りましたので今回は朝はでコーヒーとブリオッシュかクロワッサンあるいはケーキと通っておりました。お菓子はクラッシクなフランス菓子が多く、まるでモノクロ写真の世界に入ってしまってセピア色の風景のなかにとけこんでいるかのような気になるお店です。

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   Aux Delices de Michel Colombe    1place Francois Sicard 3700tours

  毎日営業、8時から19時

  トウール駅前にあるブリオッシュ屋さんもお気に入りです。ブリオッシュのみ販売しているお店で、1907年からの営業です。朝7時30分開店、商品がなくなったらお店を閉めるとのことでした。かなり大きなブリオッシュが1ユーロ以下というパリでは考えられない価格です。やや塩味がきつく感じられるもののバターの風味の良さで一個ぱくっと食べられます。またこのブリオッシュは4日間は大丈夫だそうです。Dscf4542 

   Briocherie S.LELONG  13place du General Leclerc 3700Tours 日曜休

             

 

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2011年11月 3日 (木)

トウールの美術館の象の剥製

 トウールの街には美術館がありますが、beaux artsと呼ばれる各地でみかけられる固有名詞のつかない美術館です。有名なルーブル、オルセー、マルモッタン等地名、人名つきで呼ばれる美術館の他、beaux artsとよばれる美術館は、19世紀にナポレオン3世が各地方にひとつは美術館をつくろう、という文化政策により建設されていきました。ここトウールのbeaux artsは大きな正門をくぐると巨大なレバノン杉がうっそうと茂り、名作絵本(片足ダチョウのエルフ)のラストで主人公エルフが姿を変えたあの大きな木を思い出させます。この杉の木の左に美術館、奥はきれいな庭、右にアジア象の剥製が展示されています。

 この象は1904年にこのトウールの街で死亡したフリッツという名のサーカスにいた象です。アジア象といっても生息地により亜種があります。ちなみに大阪天王寺にはタイ象の春子さん、インド象のラニー博子さん、京都にはマレーシア象の美都、神戸王子にはインド象のペア・マックとズゼ、浜松動物園にはインド象の松子さん、豊橋のんほいパークにはインド象アーシャ(9月17日に雌の子供が産まれてめでたくママとなりました)と飼育されていますがこのフリッツはどの象なのか分かりません。

 説明によると、フリッツはサーカスの興行でヨーロッパ各地をまわり、この街で衰弱のためロワール川近くの広場で倒れてしまい、サーカスの一座は次の興行のためにロワール下流の街に行ってしまい、フリッツは結局は死亡してしまいました。(享年80歳)

 その後、大西洋近くのロワール河口の街ナントまで持っていかれて剥製となり、蒸気船に牽引された船に乗せられて剥製となったフリッツはトウールに戻ってきました。別の場所に剥製と骸骨は展示されていましたが大戦中に骸骨は焼失してしまった、と読めました。

 このフリッツがどんな境遇にいたのか想像は出来ませんが、80歳までは動物園でもなかなか生きていくことは難しいので、サーカスという環境を受け入れそこに順応できた賢い象だったのかと思いますし、それなりに大切にはされていたのかな、とも思いたいです。

 トウールを発つ朝、大聖堂にいってみたのですがそこには入ることは出来ず、美術館は庭には入れましたので庭の散歩をし、フリッツに別れを言ってきました。

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ロワール古城・ユッセ

ロワールの支流ヴィエンヌ川沿いにあるこのユッセ城はシノンの森の中にあり、うっそうとした森の白亜のお城はまさしく眠り姫のお城、というにふさわしい美しいお城です。

Dscf4547_2門をくぐると噴水噴水のある庭、左手には白いチャペル 右手にこれまた白亜のお城が聳え立ち、坂道を少し歩いてかつての堀の上にかけられていた橋を渡ってたどり着いた入り口には薄いピンクのつるバラが植えられていて可愛らしいその花を咲かせていてまさに今から眠り姫の館に入るのだ、とわくわくさせられます。

 このお城は中世に立てられた城塞をその後数回も改築していった結果、ルネッサンスの優美な姿となりました。王様は一度も滞在はしていませんが、王の部屋、と呼ばれている豪華な一室はあります。

 このお城はずっと訪れたかったところで、3年間にはなかったミニバスツアーが今回は実施されていたのでやっと念願かなって来られました。

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  写真右奥が眠り姫の展示がされているところです。小さな入り口からは螺旋階段があり登っていくとシャルル・ペローの絵本の挿絵を思い出し、どきどきしてきました。小さな部屋にお話にちなんだシーンが再現されていました。マネキン人形たちは現代的な顔立ちでちょっと残念でしたが。塔の上は古い家具などが置いてある物置になっていて埃くさく、子供が遊んだであろうおもちゃや衣裳ケースのような大きな木箱があり、このお城はずっと人が住んでいたという歴史の証人に思えました。

 お城についた時雨が降っていてあいにく傘を持っていなかったのでゆっくり庭の散歩は出来ませんでしたが一応はぐるっとまわってみました。花の色はまだ夏の気配を残しているようで、パリにはなかった眺めを楽しみました。

 庭にはオレンジの植木がおいてあり、小さなオレンジが実っていました。蝶の子はいませんでした。(すでに蛹となってオレンジ温室のどこかで冬をこすのでしょうか)

 ここにいたのは1時間ほどでした。機会があればまた来られたらいいなあ、と思いつつポストカードを沢山買い、ミニバスに戻りました

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ロワール古城ランジェその2

 ランジェ城を訪れ、取材をしてから電車の時間までかなりあったのでこの町を歩いてみよう、とお城の周囲をうろうろとしていました。お城を取り囲むいかめしい石壁は途中で民家が立ち並ぶ通りとなってしまいました。ホテルのようなものは見つけられず、貸し部屋らしきものの看板のあるおうちはありました。お城の入り口に面するようにしてサロン・ド・テのあるケーキ屋さんを見つけたときはやったー、と思い、入ってみたら木組みのある古いお家を改造したようで、暖炉には音をたてて薪がもえていて、ここでゆっくり過ごすのもいいな、と、ケーキは(スワンのシュー)を頼み座りました。ここフランスで日本でかつて一世を風靡し、憧れのお菓子であったスワンのシュー・シャンテイにお目にかかるとは思ってもいませんでしたが。大変美味しかったです。

Dscf4534 そのケーキ屋さんは(メゾン・ラブレー)といいます。もとは旅籠でロワール出身のあの高名な作家であるフランソワ・ラブレーが滞在したことがあり、そのことにちなんでつけられた店名です。ケーキもブリオッシュもなかなか美味しく、もう一度いきたいなあ、と思います。

 adresse  la maison de rabelais   4 place Pierre de Brosse 37130 Langeais

  phone    0247968220   8時30分から19時まで 月曜休

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ロワール古城・ランジェ

 トウールから電車で約30分、駅を降りると徒歩5分もあればお城入り口までたどり着けるこのランジェ城はアンヌ・ド・ブルターニュがフランス王シャルル8世と秘密の結婚式を挙げたところです。

Dscf4532 1491年12月16日、国内の反対派をかわすためにこっそりとやってきたのはブルターニュ大公国当主で14歳のアンヌ・ド・ブルターニュ、そして新郎は21歳のシャルル8世で、聖職者、御付の者、護衛人、立会い人のもとわずか2時間で式は完了しました。ただアンヌが身に纏った衣裳は贅をこらした豪華なものだったといわれています。この当時王家の結婚ということはそれぞれの国の利益を背負っての契約ともとれる結びつきといえるでしょうか。結婚にはお役人も立会い、きちんと証書まで作られました。このお城には夫妻は住むことはありませんでした。結婚式が行われた部屋にはその様子を再現した蝋人形がおかれています。かつては新郎新婦の肖像画が置いてあっただけでした。他の部屋にその肖像画はかけられていて、この二人の紋章が彫られた天蓋つきの小卓もあります。ある一室の壁をみていたらAとKがくっついてひとつになっている紋章も見つけました。Aはアンヌ、Kはシャルル、をさすラテン語カロルスからきています。この当時はラテン語が公式語(庶民はフランス語を話していましたが)だったので公式文書、裁判などは全てラテン語だったからです。この紋章の下にはラテン語の文章があり、それはアンヌ王妃のモットーで、そのフランス語訳を読んでみれば、不名誉よりむしろ死を、と私には訳せました。アンヌ・ド・ブルターニュはブルターニュ大公父フランソワ2世と2度目の妻マルグリート・ド・フォワの長女として1477年に生まれ、その翌年に妹イザボーが生まれます。1486年母は死亡、1488年、フランス国王への反乱(サン・トウバン・コロミエ)で反抗分子の長として父は立ち上がりますが敗戦して死亡、わずか11歳でブルターニュ女大公となります。1490年妹イザボーは死亡。(腹違いの兄弟姉妹はいました)あまりにも大きなものを背負ったアンヌ大公がこのようなモットーを人生哲学にして生きたのか、と思うとともにその人生をたどるのにはこのモットーを頭においていかねば理解できないなと思いました。

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2011年11月 2日 (水)

ロワール古城・アンボワーズ

 ロワールに点在する古城には王家の居城であったところと貴族の館であったところがあります。それぞれに歴史があり関わった人間達のドラマがお話になったりなかば伝説的なストーリーが紡がれています。今回訪れたかったのは最後のブルターニュ大公国当主にして2人のフランス王の后となったアンヌ・ド・ブルターニュ(1477年生まれ1514年死)に縁のお城ですが、ここアンボワーズは最初の結婚でシャルル8世王妃として宮廷を持ったところです。このお城から少し離れたところにあのレオナルド・ダ・ヴィンチが最晩年を過ごした館・クロ・リュッセがあります。

 1471年にシャルル8世が既にオーストリア・ハプスブルグ家のマクシミリアンの2度目の后として代理人との結婚式まで執り行われていたブルターニュ大公国当主アンヌを横取りするようにしてこっそりと結婚式を挙げ、(最初の結婚は無効とされてしまいました)宮廷生活を送ったのがアンボワーズ城で、ロワール川の側にそそり立つようにして建っている、防御のためのいかめしいお城です。トウールからバスに乗って約40分、劇場前で降りてからお城までは少し離れていました。今回は一日ここで過ごそうと思っていましたのでお城の途中の道をうろうろとして商店街を覗いてみたり、ケーキ屋さんチェックをしたり観光局であれこれ聞いてみたりで以前は見ることが出来なかったこの街の景色を楽しみ、それからお城に入ってみました。このお城は入場券は一日有効ということはなくて一旦出てしまえば再入場は出来ません。アンヌの時代は2重3重に厳しく調べられてからでないとお城に入れなかったようです。このお城で現存している建物はレオナルド・ダ・ヴィンチのお墓のあるチャペル(もともとはこのまわりに教会や廊下があったのですが全て倒壊してしまいました)等半分以下のようです。チャペルの入り口には見事な彫刻があり、祈るアンヌ王妃とシャルル王で、亡くなった王子2人が天使となってマリア様と一緒にいます。

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王家の人々やそのまわりに仕えた人々が生活をしていた3階まである建物入り口からはかつてジュー・ド・ポーム(テニスの前身であった球技)のコートがあった場所を見下ろせます。1498年、競技をしよう、と急ぎ足だった国王シャルルは鴨居に頭をぶつけてしまいその日のうちに死亡してしまいました。王妃アンヌの運命が変わってしまった事件です。1階は警備の兵隊の詰め所などがあり2階部分で王家の人々は生活をしていました。3階は19世紀になってからこのお城を所有したフランス王の分家オルレアン家が付け足したものです。アンヌ王妃は結婚の翌年に最初の王子を授かり、シャルル・オルランと名付けられた王子はこのお城で養育されました。(王妃は王に付き従って各地をまわりました)待望の世継ぎとし期待を一身に集めていた、先行きは光に満ちていたこの子は、しかし長生きできませんでした。アンボワーズを襲ったはしかの流行は幼い王子の命を奪ってしまいたった3歳と6日で天に召されてしまいました。レオナルド・ダ・ヴィンチの館にはシャルル王が王妃のために建てた礼拝堂がありますが、そこでアンヌ王妃はどれだけの涙を流したことでしょうか。下の写真はシャルル8世死亡の現場・かつてのジュー・ド・ポームのコートがあったところです。かつてを想像は出来ませんでした。

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2011年10月31日 (月)

ロワール古城・ブロア

 トウールは個人でロワール古城めぐりをするには行動基点にするには適していると思います。フランス国鉄利用でいけるお城も数箇所あり、トウール観光案内所前から毎日出発するミニバスツアー(要予約)でのお城めぐり、数箇所のお城を巡回するバスも運行しています。

 アンヌ・ド・ブルターニュ縁のお城としては最初の結婚をしたランジェ城、シャルル8世王妃として宮廷を持ったアンボワーズ城、アンヌとの2度目の結婚のためにルイ12世が最初のお后ジャンヌ・ド・フランスとの離婚許可をローマ法王アレッサンドロから受け取ったをシノン城、(アンヌとの結婚はナントで執り行われました)、ルイ12世王妃として過ごしたブロワ城、アンヌ王妃の小さなチャペルのあるロシェ城というのが事前に調べたことですが、まずブロアにいってみました。この街はルイ12世が育ったところです。既に9世紀頃には要塞としての城があったとされており、10世紀半ばブロアとその周辺はフランス王臣下で最大の封権領主ブロワ伯の領土で、その後シャルル5世(1377年生まれ・1380年死)の王子の一人ルイ・ドルレアンがブロワ伯の名称を買い取り、それをきっかけにこの街は繁栄をしました。このオルレアン公は百年戦争時、イギリスで捕虜として長く生活をしフランス帰還後、既に70歳を超えていたのですがまだ十代のお姫様と結婚して授かったのがルイで、後のフランス国王ルイ12世(1462年生まれ・1515年死)です。下の写真は1514年に王妃アンヌ死去後、イギリス・チューダー王家の王女と再婚するために送られた肖像画です。美男王と呼ばれたルイ12世ですが既に50代、王子を得るための再再婚でしたが結婚後まもなく死去しました。お相手の王女は故国に戻り、かねてから意中の貴族とめでたく再婚をし、その孫は(たった9日間の女王、といわれた)ジェーン・グレイです。Dscf4504

王家の分家当主(祖先をたどるとシャルル5世の王子)が、本家のフランス王シャルル8世が跡取りを残さずに夭折してしまって一番近い男系ということでフランス王となったことでこのブロワの街はさらに活性化し、ルイ12世が跡取りの王子を残さず、あとを継いだ娘婿である分家(バロア・アングレーム)の当主フランソワはブロワを捨ててパリ近郊フオンテインブロウその他のお城で宮廷を持ちましたがその子孫(バロア王家終焉までの4人のフランス王たち)はここを居城とし、数々の歴史ドラマが繰り広げられました。その後王家はパリに移ってしまい、ルイ13世の弟王子オルレアン公はここに自分の館を増築しましたが、ルイ16世時代にはすっかりさびれてお城も取り壊されそうになりましたがそうならず、革命時は兵舎になっていたこともあったようです。19世紀、大規模な補修が行われ、現在我々が目にするのは19世紀の修復後の姿です。さいわい2度の世界大戦での消失は免れ、今は市が管理、所有している観光資源です。このお城を見ると時代の異なる3つの芸術様式を一度に見ることができるのは以上の歴史があったからです。

ルイ12世はハリネズミを紋章、としていました。アンヌ王妃と過ごした館にはルイとアンヌをあらわすAとLがあちこちに見られます。またルイの紋章ハリネズミのレリーフも多くみられますが革命時に殆どが削り取られてしまいました。この写真は唯一現存するオリジナルです。Dscf4539

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トウールの大聖堂

 フランスには各地に有名な大聖堂があり、日本人にもっとも知られているのはパリ・ノートルダム大聖堂、独特のブルーの輝きが美しいステンドグラスのあるシャルトル大聖堂と思います。ここトウールにはサン・ガシアン大聖堂が聳え立っています。

 起源をたどれば西暦338年と説明にはありましたがフランボワイヤン様式の外観は15世紀のものでそれまで火事や戦災などで倒れたり燃えたりというアクシデントは多かったようです。メモは取ってもあとから読んでみると自分の書いた字なのに読めなかったり書き間違いと思われるところがかなり多く、頭を抱えてしまいました。

 この大聖堂にはフランス王家の子供2人の小さなお墓があります。大理石でつくられた幼子の彫刻もその上で眠っています。その子達はフランス国王シャルル8世(1470生まれ1483年即位-1498年死)と最後のブルターニュ大公にしてフランス王妃アンヌ・ド・ブルターニュ(1477年生まれ1514年死)の間に生まれた王子達です。

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 3年前にここトウールで語学学校に通っていたとき、この大聖堂であまりにも小さなお墓とその上にある子供の姿を見たときに痛ましさを感じ、両親の名前をみてアンヌ・ド・ブルターニュ、と知った時、今まで知ってきたフランスの歴史のなかで時々登場するその名が気になっていたアンヌ王妃が単なる点景の女性から一本のラインとなってあらたに目の前にその姿を現したように思えてそれからこの女性を追いかける旅が始まり、今回もアンヌ王妃の足跡をたどるのも目的のひとつでトウールに再び降り立ちました。

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 王子の一人は結婚の翌年に生まれた王太子シャルル・オルランで3歳のお誕生日を迎えてからわずか1ヶ月と6日後、麻疹で死んでしまいました。(1495年12月)15歳で母親となったアンヌですが、王子は誕生後すぐに乳母達に養育されることとなって離されてしまいました。もうひとりは1496年生まれ生後25日で死んでしまったシャルルです。1492年に2人目の王子を生後数日でなくし、1493年、1494年とたて続けに妊娠してどちらも死産、と痛ましいことばかりでさらに追い討ちをかけられるように王太子まで亡くし、その翌年9月、おそらくは希望を託したであろうシャルル王子まで失ったアンヌの悲しみは想像もつきません。この2人を一緒に眠らせているのも親のせめてもの思いでしょうか

 初めてこの棺と幼い子の彫刻をみて、これは王子と王女だ、と思ってしまいましたが王女と思っていたのは王子で、スカートのような服をみて早合点してしました。

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トウールの銘菓・プリューノ・ファルシ

 ロワール地方の古都トウールには前回紹介しましたヌガー・ド・トウールの他、分厚い丸いコイン型で色とりどりのキャンデー、シュクル・ドルジェ、ドライプラムにアプリコットのゼリーを詰めたプリューノ・ファルシがあります。

 ドライプラムを使ったお菓子には大粒プラムの生産地アジャンの銘菓プリューノ・フレが有名でパリでも買えますがトウール銘菓プユーノ・ファルシは私が見たところではここでしかお目にかかれませんでした。アジャン銘菓のほうは中に詰まっているものはプラム果肉と砂糖、時としてブランデーも混ぜて作られたジャム(ミキ・プルーンを煮詰めたような感じです)がぱんぱんに詰まっていて柔らかく、トウール銘菓のほうはアプリコットのパート・フリュイが挟んである、といった感じでぱんぱんに膨れていないし、歯ごたえもしっかりとしています。粒そのものもアジャンほど大きくはありません。

 15世紀、イタリア・ルネサンス文化を仏蘭西にもたらしたのは一人のまだ14歳の少女イタリア・フィレンツエの大商人の娘カトリーヌ・ド・メデイシスでした。彼女の前にも既に多くの文化人が連れてこられたり、フランス王のイタリア遠征等で文化流出はありましたが、この少女のもたらしたのは今もフランス食文化の底に流れるルーツと呼べるもので、例えばフォークを用いる食事マナー、アーテイチョークなどの食材、マカロン、シュー生地等お菓子の数々、知識豊かでだれかの賢さをほめるときに(あのカトリーヌ・ド・メデイシスほど・・・)と引き合いに出されるほどの教養の深さ、立ち居振る舞いの優雅さ、と当時のヨーロッパの宮廷が憧れたルネサンス文化の申し子とも表されたこの少女は莫大な持参金と共に食文化をもって仏蘭西国王フランソワ1世の次男アンリのところに嫁入りをしてきました。彼女のことはあまりにも有名なのでここでは書きませんが、プリューノ・ファルシについてお店であれこれ聞いていたときにその名がでてきたので最初はイタリアからもたらされたお菓子なのかと思ったのでしたが,ルネッサンス庭園と呼ばれるイタリア式庭園には果実樹が植えられますが、プラムもそのひとつで、南よりのロワール地方トウールではよく植えられ、そのうちあちこちで栽培されるようになり、沢山収穫されるプラム、それに杏の消費のために考えられたのがこのお菓子、ということでした。かつてはプラムの特産地であったトウールですが、ワインのほうが儲かる、と今は葡萄畑ばかり、とも聞きました。古典的なお菓子ともいえますが、保存がきくため(室温で2ヶ月はOK)、崩れたり壊れる心配もないため旅行者(とくに日本人)がお土産に多く買い求める、ともお店のマダムは話してくださいました。私も2箱買いました。

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